<?xml version="1.0" encoding="UTF-8" standalone="no"?><?xml-stylesheet href="http://www.blogger.com/styles/atom.css" type="text/css"?><feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom" xmlns:blogger="http://schemas.google.com/blogger/2008" xmlns:gd="http://schemas.google.com/g/2005" xmlns:georss="http://www.georss.org/georss" xmlns:openSearch="http://a9.com/-/spec/opensearchrss/1.0/" xmlns:thr="http://purl.org/syndication/thread/1.0"><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960</id><updated>2024-12-19T12:29:40.121+09:00</updated><category term="Web2.0"/><category term="時事"/><category term="書評"/><category term="音楽"/><category term="ドラマ"/><category term="個人の創造力とは"/><category term="トヨタ生産方式"/><category term="政治"/><category term="評価するということ"/><category term="キーワード思考の危うさ"/><category term="ユートピアについて"/><category term="教育"/><category term="文化"/><category term="文学"/><category term="構造と力"/><category term="歴史"/><category term="科学"/><title type="text">晴れた日曜の午後、哲学の話を。| 最新記事一覧</title><subtitle type="html">ブログ「晴れた日曜の午後、哲学の話を。」の最新記事をお届けします。</subtitle><link href="http://think.nakagawa.click/feeds/posts/default" rel="http://schemas.google.com/g/2005#feed" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/" rel="alternate" type="text/html"/><link href="http://pubsubhubbub.appspot.com/" rel="hub"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default?start-index=26&amp;max-results=25" rel="next" type="application/atom+xml"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author><generator uri="http://www.blogger.com" version="7.00">Blogger</generator><openSearch:totalResults>37</openSearch:totalResults><openSearch:startIndex>1</openSearch:startIndex><openSearch:itemsPerPage>25</openSearch:itemsPerPage><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960.post-6413276728265199556</id><published>2013-11-10T23:52:00.000+09:00</published><updated>2015-02-16T23:52:40.706+09:00</updated><title type="text">クルマ社会・7つの大罪（増田悦佐）</title><content type="html">&lt;p&gt;
今年も所沢のジャズフェスティバルが11月17日に開かれる（詳細はコチラ→&lt;a href="http://www.tokorozawa-jazz-bar.com/jazzbar2013/"&gt;「所沢JAZZバル2013」http://www.tokorozawa-jazz-bar.com/jazzbar2013/&lt;/a&gt;）。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
普段ジャズは聴かないのだけど、あえてここで話題にしたのには意味がある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
街中のジャズと言えば、1930年代アメリカで隆盛を誇ったビッグバンド" ジャズだが、戦後それが急速に衰退していったのは何故か、という問いをクルマ社会化と結びつけて論じた本がある。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;
&lt;table border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tbody&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569790208/commex-22/ref=nosim/" target="_blank"&gt;&lt;img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51xHH48zsxL._SL160_.jpg" border="0" alt="クルマ社会・7つの大罪"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;font size="-1"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%9E%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%83%BB7%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%BD%AA-%E5%A2%97%E7%94%B0-%E6%82%A6%E4%BD%90/dp/4569790208%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4569790208" target="_blank"&gt;クルマ社会・7つの大罪&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;amp;l=ur2&amp;amp;o=9" width="1" height="1" style="border: none;" alt=""&gt;&lt;br&gt;増田 悦佐 &lt;br&gt;&lt;br&gt;PHP研究所  2010-08-26&lt;br&gt;売り上げランキング : 61181&lt;br&gt;&lt;br&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%9E%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%83%BB7%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%BD%AA-%E5%A2%97%E7%94%B0-%E6%82%A6%E4%BD%90/dp/4569790208%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4569790208" target="_blank"&gt;Amazonで詳しく見る&lt;/a&gt;&lt;/font&gt; &lt;font size="-2"&gt;by &lt;a href="http://www.goodpic.com/mt/aws/index.html"&gt;G-Tools&lt;/a&gt;&lt;/font&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;
&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;
この本は、クルマという文明の利器がいかにアメリカ文明を衰退に導いたかということを、7つの視点から解き明かしていく構成になっている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
その章立てはこんな感じだ。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;
&lt;ol&gt;
&lt;li&gt;エネルギー" スペースの浪費&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;行きずり共同体の崩壊&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;家族の孤族化&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;大衆社会の階級社会化&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;味覚の鈍化と肥満の蔓延&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;自動車産業の衰退&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;統制経済への大衆動員&lt;/li&gt;
&lt;/ol&gt;
&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;
もっとも「7つの視点」はちょっと振りかぶりすぎで、最後の方は燃料切れの感がなくもない。特に最終章「『クルマ社会』死後の世界で日本はどうなる？」では日本がテーマとなっているだけに、肝心のところが消化不良気味なのが少々残念ではある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
とは言えなかなかの力作であることは間違いなく、7つの論点のいずれも目からウロコの展開で、豊富なデータとともに語られる論旨には説得力がある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
その中で、ビッグバンド" ジャズの衰退とクルマ社会化の関連を論じているのが、第二章「行きずり共同体の崩壊」だ。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;
駅前広場とビッグバンド" ジャズの隆盛&lt;/h3&gt;

&lt;blockquote class="tr_bq"&gt;
&lt;p&gt;鉄道華やかなりしころには、ちょっと大きな駅前には必ず広場があった。そして、駅前でみんなが一緒に楽しめるような催しがひんぱんに開催されていた。&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;blockquote class="tr_bq"&gt;
&lt;p&gt;20～30人編成のジャズやヒットソングを生で演奏する楽団が、アメリカ中で我が世の春を謳歌していた。当時のビッグバンドは、正真正銘の総合的なエンターテインメントだった。非常にバラエティに富んでいて、誰もが楽しめるようなライブ・パフォーマンスが、全国津々浦々の主要駅の駅前広場を中心にあっちこっちで演じられていた。&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;
このビッグバンド人気が第二次世界大戦後急激に衰退するのは、レコードやラジオで安上がりな再生芸術として大衆音楽が楽しめるようになったからだ、というのが通説になっている。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote class="tr_bq"&gt;
&lt;p&gt;誰でもラジオさえ持てばただで音楽が聴けるようになった。だから、わざわざ入場料を払ってライブで聴きに行くのが面倒くさくなった。あるいは、蓄音機とレコードさえ持てば、いつでも自分が聴きたいときに自宅でレコードをかければ必ずまったく同じ音楽が聴けるようになった。だから、さっぱりライブに行かなくなってしまった。&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;
この因果関係は、確かにとてもわかりやすい。しかし著者は、ジャズ評論家ジーン" リースの「（それは）生ものと缶詰というまったく違うものに対する需要を混同した議論だ」という言葉を引用しながら、それを否定する。そして、当時のレコードやラジオはまだまだ品質的に発展途上だったのだと断じている。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote class="tr_bq"&gt;
&lt;p&gt;レコードについては、音を再生する能力がすごく弱く、雑音がいっぱい入っていた。ラジオにいたっては、時々ほかの局が混信したりして、非常に質の低い再生芸術でしかなかった&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;
そんなものにビッグバンド" ジャズを駆逐する力は本来なかった。むしろ真相はこうだ、と著者は言う。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote class="tr_bq"&gt;
&lt;p&gt;自動車の普及と鉄道会社自体の不況や戦争を口実にした極端な過小投資のおかげで、鉄道の乗客が激減して駅前広場がすたれてしまう。だから、駅前でひんぱんに軍楽隊のマーチだとか、ビッグバンドのジャズとかが聴けなくなってしまった。人間は、親しむ機会がなくなると、たとえばライブ" ミュージックは缶詰であるラジオとかレコードで聴くのに比べて、こんなにおもしろいものだということも忘れてしまう。おもしろさが分からなくなってしまったから、聴かなくなってしまった。&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;blockquote class="tr_bq"&gt;
&lt;p&gt;みんながそちらに傾斜するとそれなりにカネが入って、徐々に（引用者註: ラジオやレコードの）技術も進歩してくる。だんだん、再生の精度も上がってきた。聴くに堪えないほどの混信や雑音に悩まされることもなくなり、毎回まったく同じ音が同じ順番でくり返される異常さになれてしまえば、それなりに鑑賞に堪える芸術と評価できるようになってきた。&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;
鉄道が衰え、アメリカ人の生活がクルマ中心のものに変わっていったために、「乗り合わせた一両の電車や駅前の雑踏の中に形成される行きずり共同体」が崩壊していった。そのことがビッグバンド" ジャズの文化を衰退させるきっかけとなり、それに代わる音楽の楽しみ方としてラジオやレコードが発達していったのだ、というのが著者の分析だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
そして、著者の思考は、さらに行きずり共同体の崩壊がもたらした（とりわけぼくたち日本人にとっては）思いもかけない影響に及んでいく。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;
復員兵を日常に迎え入れるために必要なもの&lt;/h3&gt;

&lt;blockquote class="tr_bq"&gt;
&lt;p&gt;復員兵の中で精神障害、情緒障害を起こして社会復帰が困難になった人たちの比率が、朝鮮戦争では第二次大戦と比べて若干増えた程度だったのに、ベトナム戦争では激増した。&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;
その背景としてよく言われるのは、ベトナム戦争に対するアメリカ社会の受容の問題だ。誰の目にも「大義ある戦争」だった第二次大戦や（多少疑問が出てきていたものの）朝鮮戦争と比べ、ベトナム戦争では大義の在り処が相当あやしくなっていたからだ。故郷で復員兵たちを迎え入れるはずのパレードや記念行事はなく、代わりに待っていたのは住民たちの冷ややかな目だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
だが、著者はそれとは違う側面からの分析を提示する。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote class="tr_bq"&gt;
&lt;p&gt;朝鮮戦争当時までは復員兵は船や列車に乗り合わせた集団として故郷に戻っていった。港や駅には彼らに共感を示す行きずり共同体が自然発生的に形成された。そして朝鮮戦争のころ、ショートボブにした真っ赤な赤毛がキュートなティリーザ" ブリューワーが歌った『想ひ出のワルツ』のような、アメリカが戦時体制に入った時期に特有のセンチメンタルなヒット曲が、彼らをやさしく包みこんだ。この曲は出征した兵士との再会を願うヒット曲としては、アメリカ最後の名曲だった。&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;
これに対して、&lt;/p&gt;
&lt;blockquote class="tr_bq"&gt;
&lt;p&gt;ベトナム戦争の復員兵は、航空機とクルマでばらばらの個人としていきなり戦場から平和なアメリカ社会に投げこまれた。そして、ベトナム戦争の頃には航空便の大衆化も進み、太平洋はだいたい飛行機で渡って、本土に帰ってからも飛行機を乗り継いで自分の故郷に近い空港に行き、そこからまたクルマで帰るというケースが多くなる。何がいちばん違うかというと、長い時間をかけて共同体的な雰囲気の中で本土に帰るための、言わば慣らし運転をする時間が、どんどん短くなっていったのだ。&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;
戦場という異常な場所できわめてストレスの高い経験をした人々をもう一度日常の中に戻すためには、物理的な距離と時間と、そこに形成されるある種のコミュニティとが必要だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
船と汽車、そして港と駅はそれを提供する装置として機能していた。だが、航空機とクルマがそれに取って代わったとき、そこからは時間が失われただけではなく、行きずりのコミュニティもまた失われたのだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
著者は、デーヴ" グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』からこんな一節を引用している。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote class="tr_bq"&gt;
&lt;p&gt;...おまえのしたことは正しいと安心させてもらえないと、感情の内向が起きる。ベトナム戦争から戻った兵士たちは（中略）輸送船での長旅の間に仲間どうしで語り合うこともできなかった。勤務期間を終えた兵士たちは、飛行機でたちまち「世間に復帰」させられた。敵と最後に戦ってからわずか数日、ときにはたった数時間後である。迎えに来てくれる仲間の兵士はおらず、自分の体験を語りあえる同情的な共鳴板はどこにもなかった。...&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;
ここでクローズアップされるのは、行きずりのコミュニティが緩やかな共感によっていかに人々をやさしく包みこむ空間を提供してきたかということであり、その形成に港や駅がどれほど寄与してきたかということだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
そして逆に浮き彫りになってくるのは、クルマがそれとは正反対のきわめて個人主義的な乗り物であるという事実だ。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;
クルマ社会と都市の荒廃&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;
ちょうど先ごろデトロイト市の破産がニュースになった。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote class="tr_bq"&gt;
&lt;p&gt;米ミシガン州のデトロイト市は１８日、連邦裁判所に対して破産手続きの申し立てをした。負債総額は１８０億ドル（約１兆８千億円）以上あるとされ、米国の地方自治体の財政破綻（はたん）としては過去最大になる。&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;blockquote class="tr_bq"&gt;
&lt;p&gt;デトロイト市はゼネラル・モーターズ（ＧＭ）が本社を置くなど、米自動車産業の中心都市として知られ、１９５０年には人口が１８０万人を超えていた。しかし、自動車産業の衰退や治安の悪化などによって人口流出が続き、現在は約７０万人にまで減少。収入が少ないままに借金を重ねたことに加え、都市インフラの維持費用や退職公務員への年金支払いなどがかさみ、財政難に陥っていた。（朝日新聞デジタル 2013年7月19日 から抜粋）&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;
この記事にも見られるように、デトロイトと言えばアメリカ自動車産業の象徴的な都市であり、その荒廃はビッグスリーの凋落とセットで語られることが多い。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
だが、著者はここでもまた通説に異議を唱える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
彼によればデトロイトの衰退は、ビッグスリー隆盛の真っ只中ですでに始まっていたのだという。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
たとえば、1965年当時の全米大都市の凶悪犯罪発生率をみると、デトロイトは殺人で1位、強姦、強盗でそれぞれ2位と、トップランクに位置している。1965年と言えば、ビッグスリーが仲良く大増収" 大増益を続けていた年だ。その時点ですでにデトロイトは、アメリカで1、2を争うすさんだ大都会に成り果てていたことがわかる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
また、デトロイト最大かつ最高級のデパートであるハロルドのデトロイト都心店が売上最高額を記録したのは1953年だそうだが、これは自動車産業が我が世の春を謳歌する前のことだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
デトロイトの繁栄は、実はビッグスリーの全盛期よりもずっと早くはじまり、ビッグスリーの全盛期にはすでに斜陽に向かっていたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;br&gt;
&lt;p&gt;
では、何がデトロイトの街を荒廃させたのか。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote class="tr_bq"&gt;
&lt;p&gt;デトロイトでも、1920年代から30年代までは、自動車会社の重役でさえ、ニューヨーク支店に出張するときには、鉄道を使ってデトロイトからニューヨークまで行っていた。当時は鉄道駅もすごく繁盛していて、駅前のデパートは今の日本の東京や大阪の駅前の大型店と同じくらいの売上を出していたわけだ。自動車会社の重役が鉄道を使わずに、自分の会社が作った自動車でどこへでも行くようになり、さらに60年代以降はだいたいアメリカの国内の地方都市を回るときには飛行機を使うようになったので、デパートが衰退したわけだ。&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;
ここでも、クルマ社会化の進展と、それと対をなす鉄道の衰退が根本的な原因となっている。その結果、駅前のデパートは衰退し、都心はドーナツ化現象を起こして、犯罪の多い地域に成り下がってしまう。相対的に裕福な階層はそんなダウンタウンを避け、郊外のゲーテッド" シティやゲーテッド" コミュニティへと逃げ出して行く。「シティ」とか「コミュニティ」という名が付いていても、それはもはや都市ではなく、コミュニティではなかった。都市やコミュニティの意味とは「いろいろな階層、階級の人が自然に集まる機会」のことだが、ゲーテッド" シティやゲーテッド" コミュニティには、監視カメラで来訪者を厳しくチェックするきわめて同質性の高い環境しか存在していないからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
そうしたクルマ社会化と都市の破壊を決定的にしたのが、万里の長城やピラミッドをも上回る世界史上最大の公共事業であったインターステイト" ハイウェイ（州間高速道路）の建設だった。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote class="tr_bq"&gt;
&lt;p&gt;まずハイウェイがまん中を突き抜けた街が死滅してしまった。さらに、ハイウェイとの接続が悪くなった街も、即死ではないが、徐々に衰退していった。ハイウェイに対してアクセスはいいが、ハイウェイにまん中を貫かれなかったという幸運な都市だけが生き延びることになった。&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;blockquote class="tr_bq"&gt;
&lt;p&gt;当初の計画ではほとんどアメリカ中の大都市の中心部をインターステイトが貫通することになっていたが、さすがにニューヨークの市民はジェイン" ジェイコブズなどが先頭に立って猛烈な反対運動を展開した。インターステイト・ハイウェイ計画の当事者たちは、ＦＤＲドライブというマンハッタンの周囲を通る高速道路だけ作って、まん中は通さないという妥協で手を打った。「こんなに道路交通の不便な街にしてしまったら、ニューヨークはペンペン草も生えない街になる」とか捨てゼリフを言いながら。&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;
しかし、まさにそのおかげでマンハッタンは、そのまん中をインターステイトが貫くことによってイーストビレッジとウェストビレッジが分断されるという悲劇を免れ、今も繁栄しているのだと言う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
反対運動の先頭に立ったジェイン" ジェイコブズは、アメリカの女性ノンフィクション作家" ジャーナリストであり、都心の荒廃を告発した運動家として有名だが、遺作となった『壊れゆくアメリカ』でこう述べている。かつては豊かで偉大な経済社会を形成していたアメリカを、貧富の格差と犯罪が蔓延する殺伐とした国に変えてしまったのは自動車だと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
人間がクルマを日常生活の足として受け入れ、路地や横丁を邪魔者扱いし出した瞬間からコミュニティの崩壊がはじまったのだと。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;
街中のジャズ" イベントは何をもたらすか&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;
翻って、日本はどうなのだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
なるほど日本でも、郊外や地方ではかなり以前から駅前商店街の衰退が問題になり、クルマで行ける大型ショッピングモールが商業の中心となっている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
しかしその一方で、東京や大阪といった大都市圏では今なお鉄道が交通の要であり続け、人の集まる駅前や、最近では駅ナカが小売業の熱い視線を浴びているのも事実だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
そこには世界の先進国の中で日本だけが成し遂げた奇跡がある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
毎日膨大な数の乗客が利用する駅という存在を維持しつづけることで、大都市の犯罪発生率を欧米よりも一桁か二桁低い水準に押しとどめるとともに、首都高を走るクルマに占める自家用車の割合を2割という、これも欧米では考えられないような低いレベルに抑えることによって、物流の効率を飛躍的に高めることに成功した。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
いずれも、日本では個人主義とプライバシーが過度に追求されることがなく、したがってクルマ、それも自家用車が必要以上には生活の主役とならなかったことに起因するものだ（アジアに特徴的な過密都市へのある種の指向性もその一因かもしれない）。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
同書にはこんなエピソードも紹介されている。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote class="tr_bq"&gt;
&lt;p&gt;このへんの事情は、東海道新幹線が開通したとき、当初は新幹線の全駅が在来鉄道の拠点駅とは別の場所に作られるはずだったという話とそっくりだ。東京、名古屋、京都の財界人は猛反対運動をくり広げて、それぞれ在来線の東京駅、名古屋駅、京都駅への新幹線乗り入れを実現して、その後の都市経済も順調に発展した。おめおめと「新」横浜駅、「新」大阪駅、「新」神戸駅を受け入れてしまった横浜、大阪、神戸は、その後都市としての発展で歴然と差をつけられてしまった。&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;
アメリカで起こったのとはちょうど反対の事実がそこにはある。街殺しの自動車という存在と、街の生成を促す鉄道という存在の違いだ。自動車よりも鉄道に今なお多くを負っている日本の大都市の奇跡の理由はそこにある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
そうしてみれば、アメリカ文明がたどったのと逆の道を行くことは可能かもしれない。たとえば、鉄道によって形作られた郊外や地方の旧市街を、街中のジャズ" イベントを介して再び活性化させるといったことも。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
古くからある街には文化がある。文化のあるところには人の行き来がある。そして、人と人とのつながりの中から新しい文化は生まれてくる。かつて宿場町として、また市場町として栄えた所沢には、そのいずれもがある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
エッジ" シティ（アメリカの衛星都市の一種で、クルマでの生活を前提として成り立っているのが特徴）からは決して文化は生まれない。文化という事件は、必ず人と人が徒歩で行き交う距離感の中で生起するのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;br&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;
まだまだはじまって2年目の試みだが、所沢のジャズ" イベントのこれからの盛り上がりに期待したいところだ。&lt;/p&gt;
</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/6413276728265199556" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/6413276728265199556" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/2013/11/7.html" rel="alternate" title="クルマ社会・7つの大罪（増田悦佐）" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960.post-7900666094010268847</id><published>2011-05-22T02:26:00.002+09:00</published><updated>2015-02-10T21:49:42.492+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="科学"/><title type="text">生命はなぜ生まれたのか</title><content type="html">&lt;blockquote&gt;
&lt;table border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tbody&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;
&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B%E2%80%95%E5%9C%B0%E7%90%83%E7%94%9F%E7%89%A9%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%81%AB%E8%BF%AB%E3%82%8B-%E5%B9%BB%E5%86%AC%E8%88%8E%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%AB%98%E4%BA%95-%E7%A0%94/dp/4344981987%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4344981987" target="_blank"&gt;&lt;img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41m5bBq5vZL._SL160_.jpg" border="0" alt="生命はなぜ生まれたのか―地球生物の起源の謎に迫る (幻冬舎新書)"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;font size="-1"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B%E2%80%95%E5%9C%B0%E7%90%83%E7%94%9F%E7%89%A9%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%81%AB%E8%BF%AB%E3%82%8B-%E5%B9%BB%E5%86%AC%E8%88%8E%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%AB%98%E4%BA%95-%E7%A0%94/dp/4344981987%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4344981987" target="_blank"&gt;生命はなぜ生まれたのか―地球生物の起源の謎に迫る (幻冬舎新書)&lt;/a&gt;
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&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;
&lt;/blockquote&gt;
&lt;br&gt;
&lt;p&gt;生命とは何か。&lt;/p&gt;
&lt;br&gt;
&lt;p&gt;この不思議な存在を、神という言葉を使わずに解き明かすことは可能だろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それはずっとぼくのテーマだった。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;1. 連続的な状態&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;すこし話はそれるが、昔、京大の霊長類研究所にいた友人に「意識は進化のどの時点から生まれるのか」と聞いたことがある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;彼の答えはこうだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「意識のあるなしは連続したもので、ある時点で突然生まれるものじゃないんだ」と。&lt;/p&gt;
&lt;br&gt;
&lt;p&gt;聞いてみれば、そりゃそうだよなと思う。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;/p&gt;&lt;p&gt;意識とは、脳の一種の「状態」 だと考えてみればいい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高原と低地に境界がないように、健康と病気とに境目がないように、ある状態と別の状態との間にあるのはただ相対的な変化だけだ&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そう考えてみれば、イヌには人間のような意識はあるのか、トカゲはどうかといった議論はナンセンスだとわかる。意識が、生命の進化の長い過程の中で脳がしだいに持つようになったある種の「状態」のことであるなら、そこに絶対的な「はじまり」は存在しない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だが、生命そのものについて考えるときぼくたちは同じ誤りを犯しているかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;br&gt;
&lt;p&gt;生命とは何かとぼくたちは問う。その起源はいつか、と。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一体いつから、自らの意思（もちろんそれは人間が持つような意思とは異なるが）を持ってうごめき、群れ、自己を保存し、種を存続させようとするこの不思議な存在は生まれたのか。&lt;/p&gt;
&lt;br&gt;
&lt;p&gt;しかし、もしそうした「自己保存」や「種の存続」といった定義によって生命というものを同定し、「物質」との対比で生命を捉えようとするなら、その誕生は永遠に解けない謎となるだろう。何故ならそうしたやり方は、「無」からいかにして「有」が生まれるかという問いを立てることとイコールだからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;決して無から有は生まれない。そうなると生命の誕生は永遠の謎となってしまう。だが、生命もまたひとつの「状態」なのかもしれないとしたらどうだろう。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;2. 自己組織化&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;1977年、イリヤ・プリゴジンという化学者が「散逸構造論」でノーベル賞を受賞した。&lt;/p&gt;
&lt;br&gt;
&lt;p&gt;以下、Wikipediaから引用する。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;
&lt;p&gt;散逸構造とは、平衡状態でない開放系、つまり、 エネルギーが散逸していく流れの中に自己組織化によって生まれる、定常的な構造のことだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;散逸構造は、岩石のようにそれ自体で安定した自らの構造を保っているような構造とは異なり、例えば 潮が流れ込むことによって生じる内海の渦潮のよう に、一定の入力のあるときにだけその構造を維持し続けているようなものを指す&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;プリゴジンが提起した概念はきわめて画期的だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;上にある渦潮の例に限らず、「自己組織化」と呼ばれる現象は自然界に数多い。そこでは、ある種の構造がエネルギーの流れの中で自然発生的に生まれ、エネルギーの供給が続くかぎり存続しつづける、ということが常に起こっている。宇宙には元々、そうした自律的なはたらきが備わっているのだ。&lt;/p&gt;
&lt;br&gt;
&lt;p&gt;生命とは他でもない、自己組織化によって生まれた散逸構造のひとつの形態だと言える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この発見によって、人類は生命と非生命とをひとつの枠組みで語る方法論を手に入れた。そのふたつは、もはや無と有の関係ではなくなった。つまり、必要十分なエネルギー供給が存在するある種の環境下で発生した散逸構造が、その維持の継続性を自ら担保する構造へと遷移した時に、それは生命と呼ばれる状態になるのだ。&lt;/p&gt;
&lt;br&gt;
&lt;p&gt;そのように捉える時、非生命と生命を隔てる境界線はきわめてぼやけたものになる。そして、「生命の誕生」という特権的な瞬間は存在しなくなる。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;3. 生命の内と外&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;この本の中で著者は生命に関するいくつかの定義を紹介しているが、Oriver &amp;amp; Perry（2006）による定義はこうした散逸構造のイメージに沿っている。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;
&lt;p&gt;生命とは、外的および内的変化に応答し、自己の存続を推進するような方法で自己を更新する自律系を可能にするような事象の総和である&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;多少難しいが、ここから読み取れるのは、生命は環境の絶え間ない変化の中に常に晒されていること、それゆえ生命の存在は決して固定的なものではなく、絶えず推進・更新されるべきものであることだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それは自己組織化する散逸構造としての生命の捉え方に他ならない。&lt;/p&gt;
&lt;br&gt;
&lt;p&gt;こう定義する時、生命は時間軸上において相対的である（生命の誕生という特権的な瞬間はない）だけでなく、空間的にも相対的な存在となる（生命の外部と内部を隔てる明確な境界もまたない）。&lt;/p&gt;
&lt;br&gt;
&lt;p&gt;先の生命の定義を問うくだりで、著者はこんな風に述べている。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;
&lt;p&gt;生命の定義？あんまり最近は気にしてないねぇ。近頃は生命を生命だけで考えたことないしねぇ。生命が生命だけで存在することはあり得ないしねぇ。生命を取り囲み、生命を含んだ環境（生命圏）の在り方やその中のエネルギーや物質の流れがむしろ重要なんじゃないかと思うしねぇ&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;独特の文体が気になるが、ここで言いたいのは、生命は常にエネルギーの流れの中にあること、それをどこからどこまでが生命に属するものでどこからは外部だという風に輪郭を規定することには意味がないこと、生命について考えようとするならエネルギーの流れの全体を捉え、その振る舞いの総体を見るべきであることだろう。&lt;/p&gt;
&lt;br&gt;
&lt;p&gt;これもまた散逸構造の考え方に則っていることは言うまでもない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「人はひとりでは生きていけない」というが、生命そのものが実は独立しては存在し得ないということだ。それは単に酸素が必要だとか栄養物が必要だという話ではない。まず生命があって、それが酸素や栄養物を必要とするのではなく、そもそも生命とそれを取り囲む環境とはひとつの「現象」であり「状況」であって、それらを分けて考えることはできないということなのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;むしろ環境という多種多様なエネルギーのせめぎ合う「場」の中に浮かび上がった結節点のようなもの、それこそが生命の姿であるからだ。&lt;br&gt;

&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;4. 生命の誕生&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;もう一度「生命の誕生」という話に戻ろう。&lt;/p&gt;
&lt;br&gt;
&lt;p&gt;問題は、現れてはエネルギーの枯渇とともに消滅する高分子体の散逸構造が、どんな場所で、かつどうやって半永続的にエネルギーを獲得し、自らを維持し続けられるようになったのか、ということだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;著者は、その場所を原始海洋の至るところにあった「熱水活動域」としている。その多くは、&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;
&lt;p&gt;高温かつ激しいマントル対流が引き起こす地殻をビリビリに切り裂くプレートテクトニクスの拡大軸で起きるものであった。&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;そして、そこで起こった（と思われる）現象を次のように描写する。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しばらく引用が続くが、専門度の高い話なのであえてそのまま紹介する。ただ、全部は引用できないので、その先は原書を参照してほしい。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;
&lt;p&gt;熱水活動がどのようなものであったにせよ、熱水活動自体は無機・有機物を濃縮し、数多くの有機物発酵生命が誕生する場となった。無数に誕生する有機物発酵生命のほとんどすべては、硫化鉱物の持つ高い化学反応性や触媒活性を取り込む進化を遂げたり、互いに「混じり合い」「補完し合い」「奪い合い」を繰り返し多様性を増大させたりしたが、有機物供給が枯渇するにつれ、最終的な生命活動の持続に必要なエネルギーを確保することができずに消え去って行った。&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;こうした「一発屋」的な生命の誕生は「原始地球で数え切れないほど起きたはずなのだ」と著者は言う。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;
&lt;p&gt;もしその場で私が観察できていたら、「おっ、こっちは化学進化というレベルを超えているね。あっちのはまだ単なる化学反応の寄せ集めだね。全然ダメだね。おぉーあれあれ、一回増えちゃったんじゃない？もしかして最古の生態系イっちゃう？イっちゃう？あーやっぱりだめか」みたいな感じ。&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;それは一般的な散逸構造のほとんどがたどる姿だ。だが、ごくまれに例外的な状況が発生することがある。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;
&lt;p&gt;当時の海底熱水では優占的であった、コマチアイト熱水活動域の熱水には、他の熱水にはない特徴があった。熱水に含まれる水素の濃度が群を抜いて高かった。このようなコマチアイト熱水活動域に誕生した無数の有機物発酵生命の中から、熱水から供給される高濃度水素と海水中の二酸化炭素をエネルギー源として原始的なメタン生成やその他の水素エネルギー代謝能を持った「最古の持続的生命」が生まれた。&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;このように見ていった時、浮かび上がってくるのは、生命とは化学反応の連鎖の一形態にすぎないというひとつのビジョンだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ある高エネルギーの場において、一群の高分子体による複雑な化学反応の連鎖が、ある状況の中で、その反応そのものを持続させる反応形態へと遷移する、その時に生命が誕生したという訳だから（それを生命と呼ぶのは、もちろん人間の勝手な都合でしかないのだが）。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それを宗教と科学の対立という観点から捉える人もいるだろう。しかしそれは間違っている。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;5. 言語という限界&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;そもそもぼくたちはなぜ生命を、というよりも「存在」を特権視するのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エネルギーの渦巻く「状況」の中から生命という「存在」だけを取り出して語ることには意味がないし、連続的な状況の変化の中からある「状態」（自己組織化、または持続的な自己組織化という状態）だけを切り出して語ることにも意味はない。それはここまでで見てきたとおりだ。&lt;/p&gt;
&lt;br&gt;
&lt;p&gt;にも関わらずぼくたちが「存在」を特権視するのは、恐らく人間の認識構造そのものに関係がある。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;
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&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;
&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;「雪片曲線論」（青土社、1985年）の中で中沢新一はこう述べている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;世界中のあらゆる言語においてベースとなっているのは、まず主語（S）を特定し、次にその振る舞いや状態を述べる（述語＝V）、いわゆるS+Vの構造であると。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この認識構造で世界を捉えようとすれば、まず「存在」というかたちで主語を切り出し、次にそれが環境とどう関わるかを見ていく（＝述語）、という順序にならざるを得ない。存在と環境が渾然一体となった状況を、そのままで掴み取ること（それは恐らく述語だけで世界を描いてみせることに等しい）は言語にとって、ということはすなわち人間にとって簡単ではないのだ。&lt;/p&gt;
&lt;br&gt;
&lt;p&gt;科学と神（宗教）との対立という観点で言えば、実はそこで語られている神という概念そのものが、そもそも上で見た言語の構造と無縁ではない。神という概念が、混沌とした世界の中に絶対的な（一神教的な）ひとつの存在を打ち立てるということであるならば。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ある意味で、（絶対神としての）神もまた人間の認識構造の限界から逃れ出てはいないということだ。&lt;/p&gt;
&lt;br&gt;
&lt;p&gt;つまり、生命を「存在」としてではなく「状況」として捉えようという考え方は、神や宗教に対する科学の優越ではなく、人間の認識構造に対する、もしくはそれを無自覚に是として疑わない思考形態へのアンチテーゼというべきだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その対象には、他でもない科学そのものさえ含まれている。例えば、物理学の最先端では「究極の物質の根源、究極の素粒子は何か」といった探求が行われている。しかし、その答えは恐らく生命のケースと似ていて、量子場においてさまざまに変化するエネルギーの、その時々の状態がさまざまな素粒子の形態を取って現れてくる、ということなのだ。素粒子という根源を追求することには恐らく意味がなく、どういうエネルギーの状況の中でどんな変化と反応が起きているのかを見るべきなのだ。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;6. 神はいるか&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;ここまで、あえて絶対神としての神について考えたが、実際には絶対神は世界の宗教史上においてむしろ少数派だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;インドのブッダはかつて世界を「空」の概念で捉えようとしたし、中国人は世界を概念ではなくあくまでも実践的な行動哲学において語ろうとした（孔子や老荘など）。また、ぼくたち日本人は世界を森羅万象に潜む霊性において捉え、八百万（やおろず）の神という考え方を生み出した。&lt;/p&gt;
&lt;br&gt;
&lt;p&gt;同じ神とは言っても（もしくはそれを神と呼ばないにしても）、主として東洋におけるこうした世界観は、ある種のエネルギーの「状態」として世界を捉えようとする思考に近い。例えば、仏教における「空」の概念は、そこに何もないということではなく、存在が「空」ということだ。それはすべてが生々流転する場であり、生者必滅すなわち諸行無常の世界なのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうした世界観は、「存在」とその「振る舞い」という人間の認識構造のパターンを何とかして超越し、世界をありのままに（述語だけで）捉えようとする人々の思考の苦闘の跡であるように見える（それを象徴するように、日本語においては、しばしば主語が消滅しても文が成立する。そもそもが、主語と述語の間に形容詞や副詞など他の要素が入り込むことによって、主語と述語の関係を曖昧化するのが日本語の特徴ではある）。&lt;/p&gt;
&lt;br&gt;
&lt;p&gt;そうした観点からすれば、科学と宗教は対立するどころか、かなり近い世界観を目指す動きさえあることが見えてくるのではないだろうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;唯物論からすれば神は存在しない。だが、問題は「神とは何か」、言い換えれば、ぼくたちは神という概念で何を表現しようとしているのか、ということだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;神を、つかのま生あるものを生じさせ、作用させている巨大なエネルギーの場であると捉えるならば、それは万物の創造主と呼ぶにふさわしく、常にそこに神はいる、と考えてもまったくおかしくはない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;考えてみれば、さまざまなレベルのエネルギーがせめぎあう場において、さまざまな自己組織化パターンが励起し消滅するその状況は、きわめて科学的な分析と考察を経た後でなお美しく、かつ神秘的ですらある。そこにおのずと生まれてくる畏敬の念は、科学を知ろうと知るまいと、いや知ってなお大きくなりこそすれ、小さくなることはないように思うのだが、どうだろうか。&lt;/p&gt;
</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/7900666094010268847" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/7900666094010268847" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/2011/05/blog-post.html" rel="alternate" title="生命はなぜ生まれたのか" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960.post-7801788907664000189</id><published>2007-07-12T05:43:00.003+09:00</published><updated>2011-03-02T23:50:25.185+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="個人の創造力とは"/><title type="text">反・人権・宣言3</title><content type="html">&lt;p&gt;「個人の創造力」ということはもう十分すぎるくらい語られてきた。むしろ「社会の創造力」ということが、そろそろ語られていい頃だ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;「社会の創造力」の典型は映画やオーケストラだろう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そこには監督や指揮者といった全体をまとめる立場の人はいるものの、作品は決して彼の「意図」で完結しているわけではない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;映画で言えば脚本家や俳優、カメラ、美術、音楽など、オーケストラで言えば楽団員全員がそれぞれの立場から創造に参加し、それぞれの解釈、それぞれの意図を作品に込めようとしている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;監督や指揮者は、それらを束ねひとつの方向にまとめ上げていくのだが、その行為は必ずしも彼個人の意図通りに全体を「デザイン」することとは限らない。むしろメンバーや楽団員が持つ無数の意図をどう「編集」するかというところに彼の力量が示されると言ってもいいだろう。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;デザインは対象をひとつの色に塗り込めようとするが、編集は対象を生かし、その持ち味をうまく使いながら全体をまとめ上げていこうとする。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;優れた編集は編集者個人の力量を超え、素材の持つ力を何倍にも膨らませることができる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;だから、完成した作品の出来栄えとは、彼ら全員の意図と注ぎ込んだ情熱の総和では計れない。総和をどれくらい超えて何倍に至るかということが作品の深みを決めるのだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;個人で勝負しているように見える小説家でさえ、実際には編集者との二人三脚で書いていることが多い。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;小説にかぎらず世に出ている本の多くは、編集者がもちこんだ企画をベースに、著者と編集者の対話によって作り上げられていくというのはよくある話だ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;さらに言うと、仮にまったく独力で書いたものであっても、その内容はやはり社会と無縁ではありえない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;結局のところ作品は、社会が共有しているイメージや文化、価値観と無縁ではありえないし、まったくそれらを共有しない作品はたぶん誰からも受け入れられないからだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;こういう観点から「創造」を見直してみるならば、「個人の創造力」ということよりも「社会の創造力」ということの重要性と豊穣性が見えてくる。そういう観点から学校という「場」を見直してみるのも面白いだろう。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/7801788907664000189" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/7801788907664000189" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/2007/07/3.html" rel="alternate" title="反・人権・宣言3" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960.post-7749945518073397014</id><published>2007-07-10T06:24:00.007+09:00</published><updated>2011-03-02T23:50:14.363+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="個人の創造力とは"/><title type="text">反・人権・宣言２</title><content type="html">&lt;p&gt;人権は一般に「人間が生まれながらにして有している権利」と解釈される。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しかし、この概念にはさまざまな観点から疑問符がつく。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;まず、人権の概念はホッブズのいう「自然権」に由来している。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;自然権とは、原初の「万人による闘争」状態の中で個々人が好き勝手に主張している権利のことだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ホッブズではこれは悪しきもの、制限されるべきものとされているわけだが、ホッブズを起源としているアメリカ独立宣言とフランス人権宣言では、これが「守られるべきもの」としてすり替えられているという問題がある。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ただし、独立宣言と人権宣言では「人権とは神によって与えられたもの」とされていた。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;神に与えられたものである以上、その行使にあたっては「神への畏れとそれゆえの責任」が伴う。このことが、人権が勝手気ままに行使されないためのひとつの（精神的な）担保になっていたのだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しかしながら、キリスト教もしくはキリスト教的な宗教地盤のない国では、その責任を誰がどう担保するのか、という問題が大きく残る。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;さらに、先のフーコーの考え方に基づけば、ホッブズさえも覆して、原初に勝手気ままな「自己」があったのではなく、原初（というものがあるとして）にはまず「社会」があったということになる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そこでは、独立宣言と人権宣言が根拠にした「自然権」さえもその根拠が怪しいものとなり、「自己」だとか「権利」だとかの前にまず「他者との関係」があるはずだということになる。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;この「他者との関係」という視点こそ、戦後日本における権利意識の肥大化や「個人の創造力」への過剰な期待に対するアンチテーゼになるのではないかと思うのだ。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/7749945518073397014" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/7749945518073397014" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/2007/07/blog-post.html" rel="alternate" title="反・人権・宣言２" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960.post-8005664078093161611</id><published>2007-07-10T06:24:00.006+09:00</published><updated>2011-03-02T23:50:01.090+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="個人の創造力とは"/><title type="text">反・人権・宣言１</title><content type="html">&lt;p&gt;よく「創造性のある人間を育てなければ」という言説を聞く。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;しかし、これは次のように読み替えられるべきだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「創造性のある社会を育てなければ」と。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ミシェル・フーコーは「人間はやがて波打ち際の砂のように消え去るであろう」と言った。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そこで言及されたのは、明白な意思・自己を持った「個人」というものは実は存在しないのではないか、そういうものを前提に考える近代西欧の考え方はもう破産しているのではないか、という問題だった。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ホッブズにはじまる社会契約論では次のように考えた。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「個人」が欲望のままに行動したら内戦状態になる。だから「個人」の権限を少しずつ制限して、超越的な存在（政府）に預けることによって平和を導こう、と。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そこから、個人の権限をどの程度預けるべきか、個人の権限が不当に制限されないようにするにはどうしたらいいか、などといういわゆる「人権」の問題が出てくるわけだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;しかしフーコーはこう言う。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;社会契約論は明白な意思をもった「個人（自己）」を最初に置いているが、明白な意思を持たない動物の世界にも「社会」が存在する以上、自己に先立って「社会」がまず存在しているのではないか、と。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そこでぼくはこう考える。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;現代社会では、後から来た「自己」が優先されてしまったために、先にあったはずの社会の方があやしくなってきているのではないか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;だから、救わなければならないとすれば、それは「社会」の方ではないか、と。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/8005664078093161611" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/8005664078093161611" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/2007/07/blog-post_10.html" rel="alternate" title="反・人権・宣言１" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960.post-8157501924117545592</id><published>2007-01-27T23:29:00.002+09:00</published><updated>2015-02-05T22:35:42.358+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="時事"/><title type="text">不二家事件と権力の相貌</title><content type="html">
&lt;p&gt;前のエントリーで悪戦苦闘（笑）しているうちに、不二家事件があった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;まったくひどい事件には違いないのだが、ここは不二家事件をめぐってどんな権力が働いているのかについて考えてみたい。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;朝のテレビで、不二家事件の関係者（？）にインタビューしていた。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;前に不二家で働いていたという男性はこう答えていた。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;
&lt;p&gt;会社は利益の追求しか頭になく、品質なんかは二の次という感じだった&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;そうかも知れない。あれだけの騒動になってるんだからね。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しかし、ひとつ押さえておかなくてはならないのは、会社が利益追求を第一とすること自体は間違っていないということだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;むしろ会社というところは利益を第一に追求しなければならないと言うべきかもしれない。ここが大方の左翼主義者にはわかっていないところだが、利益なんてよほどの独占企業でもなければ簡単には出ないし、利益が出なければ事業は継続できない。事業が継続できなければもちろん品質も何もあったものじゃないし、社員の雇用も確保できない。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;問題は品質管理ができていなかったというその一点に尽きるのであって、利益追求云々は関係ないはずなのだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;それに、この男性のいう通り不二家の「利益追求体質」がずさんな品質管理を生んだのかどうか。それはかなり怪しい。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;この程度の発言は、居酒屋や酔っ払いで一杯の最終電車で耳を澄ませばいくらでも聞くことができる。おおよそどこの会社に行っても、会社の利益追求体質と自分たちの職場環境の悪さを肴にクダをまいている社員は大勢いるはずだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そうした連中が昨今の経営環境の厳しさと自分たちの努力の足りなさを認識しているかは極めて怪しい。むしろ、その会社にとって問題なのは、そういう社員を多数抱えていることだと言ってもいい。どうやったら利益が出るのか、そのためには顧客に何を提供しなければならないのか、そんなことを考えてみたこともないのだとすれば。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;しかしこうした元社員の言葉も、いったん会社が不祥事を起こしたとなると、権力を持った貴重な証言に変わる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そしてマスメディアは、そうした言説を集めて、消費可能な新しい「商品」をまたひとつ作り上げる。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;またもう一人の登場人物は、やはり以前に工場で働いていた女性だった。彼女はこう言う。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;
&lt;p&gt;今回の報道で言われているようなことは日常的に行われていました。それをおかしいと言えない雰囲気がありました。&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;この発言も注意して聞かなければならない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「おかしいと言えない雰囲気があった」というのだが、この女性は果たしておかしいと言おうとしたことがあるのだろうか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;実に怪しいものだが、誰もそんなことは問わない。「会社」という怪物がまた問題を起こした。そこには、自由にものも言えない風土があった。だとすると社員もまた被害者だと言わなければならない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;不気味な（顔のない）会社のイメージだけが人々の心の中に広がっていき、ましてすでに会社を辞めている彼女がれっきとした共犯者だとは誰も考えなくなる。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そうしたイメージのひとり歩きが問題をいっそう遠くに押しやってしまう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;問題の在処は、東海村の原発事故を見ても、雪印を見ても、JR西日本を見ても明らかだ。異常に利益追求体質で陰湿な社風の会社が問題なのではなく、どこにでもある普通の会社の日常から事件が起こってきているのだ。むしろ日常こそが事件の原因になっていると言ってもいい。そのことに、ぼくらはもっと戦慄しなければならない。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;いじめ問題と同じで、ここにはある種の権力が見え隠れしている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;単なるダメ社員（だったかもしれない）の発言がタイミングよくメディアに乗ることで、彼（女）は身の丈以上の権力を持つ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;何もたいした発言はしていない。ただ、ちょうどいタイミングでちょうどいい立場から、誰かに都合のいいことをしゃべっただけだ。彼（女）自身のオリジナルなものはそこに何もない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そしてマスコミは、ただそうしたガラクタのような声を集めてメディアに載せるだけで、やはり巨大な（身の丈以上の）権力を手にする。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;やはりたいした洞察力を発揮した訳ではない。機に乗じて、それ自体は何の価値もない証言を集めてきて、事実を材料に虚像を作り上げただけだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ここに現代における最大の権力の姿がある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それは、言説が権力を持つということだ。体制権力による圧制の下でも、旧ソ連のように人々の口から口へ伝わる言葉によって正気は生き残ることができる。だが、言葉が巨大な権力となる時、正気の生き残る場所はどこにあるのだろうか。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;少なくともぼくたちは、言説の持つ権力性に自覚的でいなければならない。&lt;/p&gt;
</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/8157501924117545592" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/8157501924117545592" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/2007/01/blog-post.html" rel="alternate" title="不二家事件と権力の相貌" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960.post-3601529314117421698</id><published>2007-01-25T07:19:00.002+09:00</published><updated>2015-02-05T22:36:10.024+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="教育"/><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="時事"/><title type="text">学ばれない教訓</title><content type="html">&lt;p&gt;もう昨年の暮れの話になるが、ある日の「ニュース23」の特集テーマは「学ばれない教訓」だった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;いじめが元で娘が自殺してしまった父親のその後の活動を追いながら、いじめによる自殺が相次ぐ現在を告発しようというのがその趣旨だった。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;問題意識に満ちた特集ではあった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しかしぼくは、そのテーマ設定そのものに一種の進歩主義思想を感じとらずにはいられない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そこで言外に語られているのは、つまり「ぼくたちは教訓から何かを学び取っていくべきである」ということと、「にもかかわらず同じ過ちが繰り返される現実は間違っている」ということだからだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;一見正しいことを言っているようだが、実はそうでもない。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;教訓が正しく学ばれていくなら、やがてすべての社会問題は解決していくことになってしまうが、そうなのだろうか？&lt;/p&gt;&lt;p&gt;むしろ、そういうノー天気な社会観の方が間違っているのではないか？と問いたいのだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;社会とは、絶え間ない努力を重ねればいつか頂上にたどりつく山登りのようなものではない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;むしろそれは、支えつづけていなければたちまち転がり落ちてしまう大きな岩のようなものであって、ぼくたちはそれをひたすら持ち上げつづけなければならないシーシュポスのようなものだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;かつて儒教では、理想の社会を過去（三皇五帝の時代）においたが、それは決してぼくらがたどりつくべき到達点としてではなかった。そうではなく、絶えず維持していかなければたちまち崩壊してしまう現実社会を支える規律として、それを捉えたのだった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;この二つは同じことのようだが実は微妙に違っている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;つまり、現実を否定して理想への道を語るのか、現実をそれはそれとして認めつつ、それをどう律していくかを考えるか、の違いだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そもそも「同じ過ちを繰り返す」というが、同じ過ちなどはこの世にひとつもない。ぼくたちの前に立ち現れてくるのは、常に前とは少しずつ様相の異なった現実だ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;飽くこともなく「告発されるべき権力」というステレオタイプの構図で社会を見るのでなく、そこに何があるのか、そのミクロの構図を見てほしいものだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;現実は多様なパワーバランスによって成り立っている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そこで言うパワー＝権力とは、いわゆる体制権力のことだけではない。文科省や教育委員会が権力であり、また学校や校長、教師が権力であるのと同じレベルで、マスコミという権力があり、親という権力、世間という権力、そして子どもという権力もある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;子どもの中にも、いじめっ子の権力があり、クラスメートの権力があり、もしかするといじめられっ子の権力がある。「道徳的なふるまい」という権力があり、欲望という権力がある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そうした多様な権力＝パワーが、教育という場、教室という場に渦巻いているのであり、必要なことはその渦の中に入って行って、乱流の中から何をつかみ取ってくるかということであるはずだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;しかし、「子どもたちを守ろう！」という大合唱がそうした思考をかき消してしまう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;その声の前では、校長も教師も権力をはぎ取られ、断頭台にひざまづかされたルイ１６世のようにひとりの個人でしかなくなる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;権力とは決して「地位」のことではない。自分を超える何者かの力を借りようとする時、そこに権力が生まれる。地位や金だけではない。「正義」が権力の後ろ盾となることもあるのだ。根拠のない地位や金に比べれば、正義を後ろ盾にする方がはるかにマシではないかというかも知れないが、実際には正義にだってたいして根拠はない。そこにあるのは、せいぜい誰にとっての正義か、ということくらいだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;問題は、正義が教育を行うのではないということだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;正義の名の下に断罪を行うのはいいが、現実はその後にも続いていることを忘れてはいけない。フランス革命が安定した体制に移行するまでにどれだけの血を必要としたかを思い起こしてみるべきだ。恐怖政治があり、ナポレオンの台頭があり、王政の復活があり、また共和制が生まれ、再び帝政が登場し…。同じことはイラク戦争の後のイラクを見てもわかる。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;目に見えるマクロの権力を入れ替えただけでは何の意味もない。いやむしろ教育を行う当事者不在のまま断罪が行われているかぎりにおいて、事態はむしろ悪化しているとさえ言える。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;あるのは、ただ権力を追い落としたことへの満足だけだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ミクロの権力構造を捉え、そこで本当は何が起こっているのかを見ていく必要がある。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;しかし、進歩主義思想にとりつかれた人々は、世界を両極端でしか見ようとしない。そこで問題になるのはいつも正義があるないか、進歩的であるかないか、そして体制の側か反体制の側かだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;進歩主義者が往々にしてドリル学習を好まないのもそれと同根だろう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ドリル学習には一見「進歩」がない。ドリル学習は同じことの繰り返しに過ぎない。だから彼らはそれに耐えられない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;だが、ドリル学習は同じことの繰り返しに過ぎないのだろうか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ぼくたちは一見同じことを繰り返しながらも、変化しているのではないか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そのミクロの変化を見ようとしなければ、世界という問題を解く糸口は見つからない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;もちろん、糸口が見つかったからと言って、世界という問題をすべて解き明かせる訳ではないのだが。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ぼくたちの旅はいつまでも続く。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しかし、ぼくらは「いったいいつになったら彼らは世界が進歩していくという幻想から覚めるのだろうか」とつぶやいてはいけない。そうつぶやいた瞬間に、ぼくたちは進歩主義者と同じ陥穽に落ちてしまうからだ。世界が進歩しないように、人もまたそのように進歩していく訳ではないのだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;かくしてぼくたちは黒でも白でもない薄明の場所に立ちつづける。進歩主義者たちは世界が教訓から学ばないことを嘆きつづけ、ぼくたちはそのことに歯がゆい思いを抱きながらこうして議論をつづける。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;だが、少なくともそれは「徒労」ではない。徒労とは何度も繰り返すものに対するため息の表現だが、世界は上で述べたように決して同じことを繰り返しはしないからだ。&lt;/p&gt;
</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/3601529314117421698" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/3601529314117421698" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/2007/01/blog-post_25.html" rel="alternate" title="学ばれない教訓" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960.post-1868964411384826977</id><published>2006-10-01T05:09:00.001+09:00</published><updated>2015-02-05T22:37:32.207+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="時事"/><title type="text">卒業式などにおける国歌国旗問題</title><content type="html">&lt;p&gt;卒業式などにおける国歌斉唱・国旗掲揚の問題にはもともと争点が２つある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ひとつは、判決文にある以下のくだり。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;
・・・原告ら教職員は，「教育をつかさどる者」として，生徒に対して，一般的に言って，国旗掲揚，国歌斉唱に関する指導を行う義務を負うものと解されるから，入学式，卒業式等の式典が円滑に進行するよう努カすべきであり，国旗掲揚，国歌斉唱を積極的に妨害するような行為に及ぶこと，生徒らに対して国旗に向かって起立し，国歌を斉唱することの拒否を殊更に煽るような行為に及ぶことなどは，上記義務に照らして許されないものといわなければならない。・・・
&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;今回の判決を勝訴と考えている人も、誰一人この点を問題にしていないことから、これに同意しているものと考えることができる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;この点において、今回の判決はむしろ都側の勝訴であるとも言える。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;少なくとも、教職員が卒業式などの場において国旗･国歌への反対行動をとってはいけない、ということが合意されたのだから。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;一方、判決文にはこんなくだりもある。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;
・・・原告ら教職員が入学式，卒業式等の式典において国歌斉唱の際に国旗に向かって起立すること，国歌を斉唱することを拒否したとしても，格別，式典の進行や国歌斉唱を妨害することはないうえ，生徒らに対して国歌斉唱の拒否を殊更煽るおそれがあるとまではいえず，学習指導要領の国旗・国歌条項の趣旨である入学式，卒業式等の式典における国旗・国歌に対する正しい認識を持たせ，これを尊重する態度を育てるとの教育目標を阻害するおそれもないといえる。・・・&lt;br /&gt;
&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;こちらが今回の判決の中心となっている訳だが、教師がある意図をもって卒業式などで「歌わない」「起立しない」ということが、ほんとうに「生徒らに対して国歌斉唱の拒否を殊更煽るおそれがあるとまではいえ」ないのかどうか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;この点が今後の上級審での争点になってくるだろう。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ここはたしかに判断の難しい点だ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;このことは、普段の授業において当の教師がどういう発言･指導を行っているのかという点と切り離して考えることはできないはずだから。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;しかしこう考えると（今回の原告らがどういう経緯から「歌わない」「起立しない」という行為に至ったのかを踏まえるならば）、彼らはむしろ今後の裁判によって、自分の首を絞めてしまうことになるのかもしれない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;つまり、授業の中で自分達がどういう発言・指導を行っているかを、今後学校・教委側からチェックされるかもしれないという可能性、またその正当性を導き出してしまうことになるかもしれないのだから。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/1868964411384826977" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/1868964411384826977" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/2006/10/blog-post_01.html" rel="alternate" title="卒業式などにおける国歌国旗問題" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960.post-5300198911861532428</id><published>2006-08-22T06:33:00.002+09:00</published><updated>2015-02-10T21:48:57.007+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="政治"/><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="書評"/><title type="text">民主主義について</title><content type="html">&lt;blockquote&gt;
&lt;table border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tbody&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%8B-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D-%E4%B8%89%E5%8D%83%E5%AD%90/dp/4166601911%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4166601911" target="_blank"&gt;&lt;img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41KJRMH23HL._SL160_.jpg" border="0" alt="民主主義とは何なのか (文春新書)"&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;font size="-1"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%8B-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D-%E4%B8%89%E5%8D%83%E5%AD%90/dp/4166601911%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4166601911" target="_blank"&gt;民主主義とは何なのか (文春新書)&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;amp;l=ur2&amp;amp;o=9" width="1" height="1" style="border: none;" alt=""&gt;&lt;br&gt;
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&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;
&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;長谷川三千子「民主主義とは何なのか」（文春新書）を読んだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;先頃、民主主義とは到達点でなくプロセスだ、という意味のことを書いたが、そんなのんびりしたことを言ってる場合ではなかったようだ（笑）。&lt;/p&gt;&lt;br&gt;
&lt;p&gt;何かというと「人権」を持ち出すサヨクに限らず、公共よりも自分の自由と権利を優先する人は多いが、そういう輩は民主主義を誤解している訳ではなく、実は民主主義の可能性をもっとも体現している人たちなのだということを、この本は教えてくれる。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;「民主」主義の不思議&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;実は、昔から不思議だったことがある。何故「民主」主義とぼくたちは呼ぶのか。貴族もいなければ階級制度もないこの国において、何故わざわざ「民主」を名乗る必要があるのか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「国民」主権という単語もまた同じだ。断るまでもなくみんな国民なのに、何故「国民」主権という言い方をするのだろうか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;まるで人間社会において「人間主権」と言っているような奇妙さがそこにはあるのだ。&lt;/p&gt;&lt;br&gt;
&lt;p&gt;その謎は、この本によって解き明かされる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;すなわち民主主義とは、王制や特権階級に対する「闘争」の別名であり、あくまでもそれらとの対比の上に成り立つ相対的な概念であったのだと。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「民主」とは、それらの階級との対立を表明し、象徴する表現であったのだと。&lt;/p&gt;&lt;br&gt;
&lt;p&gt;そもそも民主主義に何か明確なコアがあるのかというと、そうではない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;民主主義と聞くと、すぐさま「議会制」だとか「多数決」という概念が想起されるが、それらはいずれも民主主義の占有物ではない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;多数決とはあくまでも議会制の方法論であるし、議会制は貴族政治においても成立する以上、そもそも民主主義と同列ではない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;民主主義のコアには、結局のところ「民衆による権力との対決」という理念があるだけなのだ（この意味において、共産主義は民主主義を超えた民主主義の正当な嫡子と言える）。&lt;/p&gt;&lt;br&gt;
&lt;p&gt;とするなら、対立する階級がいなくなり自らが主権者の座に座ったとき、「民主」主義はいかにして可能であり続けられるのか？&lt;/p&gt;&lt;p&gt;これこそが次に浮かび上がってくる疑問だ。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;民主主義に内在する「敵」&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;しかし、そんな心配は無用だとすぐにわかる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;民主主義は、原理的にその内部に敵を内在させているからだ。&lt;/p&gt;
&lt;br&gt;
&lt;blockquote&gt;
&lt;p&gt;たしかに、現代の世の中では、18世紀後半にあったような典型的な「革命」というものは見かけなくなっている。しかしそのかわりに、たえず薄められたかたちで、この「不和と敵対のイデオロギー」は民主主義の社会を支配しつづけている。それは、中小国における絶え間ない、闘争的な政権交代、というかたちを取ることもあれば、先進諸国におけるフェミニスト運動やその他さまざまの「反体制運動」といったかたちを取ることもある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;およそどんなかたちを取るにしても、そこには同じ「不和と敵対のイデオロギー」・・・ 一つの共同体の内側に、常に上下の対立を見出し、上に立つものを倒さねばならないとするイデオロギー・・・が存在しつづけているのである。&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;すなわち、どんな制度の下でも、社会があるところ必ず「権力」が生まれる（むしろ権力が生まれなければ、社会が成立することはない）。そこに、階級敵を失った民主主義の新たな対立者が見いだされる。&lt;/p&gt;&lt;br&gt;
&lt;p&gt;第一の、そして最もわかりやすい敵は「政府」だ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;政府を「権力者」と見立て、自分たちを「庶民」の名の下にそれと対置させることによって、民主主義はその旗を掲げつづけることができる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ここで問題なのは、貴族政や王政と違って、敵対視される政府を主導するのが彼ら自身によって選ばれた政治家であることだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;つまり彼らは、彼ら自身が選び出す為政者を永遠に血祭りに上げつづけることになる。古代アテネの民主政がまさにそうだったように。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;僭主恐怖症&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;古代アテネ市民は「僭主恐怖症」に陥っていた、と長谷川三千子は指摘する。いやアテネのみならず、ギリシャの多くのポリスがそうだったという。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;彼らは僭主の台頭を異常なまでに恐れ、僭主（になりそうな有力者）を追い落とすために、悪名高い陶片追放制（これは実際にはそれほど効力を発揮しなかったらしいが）や弾劾裁判を駆使した。&lt;/p&gt;&lt;br&gt;
&lt;p&gt;実際は、ペイシストラトスをはじめ、僭主には善政を行った人物も多い。また、僭主と言っても武力で権力を握った者ばかりではなく、選挙で選ばれた者も多かったという。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そうであっても、いやそうであるからこそ、僭主は追い落とされなければならなかったのだと、長谷川三千子は言う。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ずっと後にヒトラーが証明したように、民意を一身に集めるときにこそ権力は暴走のポテンシャルを持つのであるからだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;民主主義は、自ら選んだ為政者を、自らが選んだまさにその故にこそ自らの手で葬り去らねばならない。これこそが、民主主義が自らの内部に抱え込んだ根本的な欠陥なのだと言える。&lt;/p&gt;&lt;br&gt;
&lt;p&gt;僭主ではないが（僭主と呼んだ人もいる）、アテネの最後の光となったペリクレスも、ペロポネソス戦争のさなか疫病が流行する中で、弾劾裁判にかけられ失意のうちに死んでいる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そしてアテネは滅亡への途をたどり、二度と歴史の舞台に登場してくることはなかった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;この様子を見ていたアリストテレスは、だから民主政を「邪道にそれた国制」に分類したのだ。民主政とは、「人民のための政治」を目指すのではなく、ただ人々が私利私欲にかられて行う政治形態である、と。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;マスコミと民主主義&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;現代におけるマスコミとは、そうした民主主義の原理（病理）を最も体現した存在であり、その増幅装置というべきかもしれない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;彼らは政治家を目の敵にする。すべからく政治家に「権力者」の烙印を捺し、自らを民衆の代弁者、民主主義の擁護者と位置づける。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;また、彼らは次々とヒーローを祭り上げては、その絶頂において、ヒーローを地に叩きつける。まるでどんな権威・名声も、一定期間以上はその連続を認めてはならないとでもいうように。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それは蕩尽のための生産・蓄積であり消費であるという点において、高度資本主義経済の一機能であると言えるが、同時に、古代アテネにおいて僭主の出現を恐れる人々の姿にも重なっている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;彼らはあらゆるところに上下構造を探し出し、それを攻撃する。それが自分たちの作った構造であるかどうかには関係なく。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;なるほどマスコミとは、平等のための容赦のない監視装置であるとは言えるだろう。&lt;/p&gt;&lt;br&gt;
&lt;p&gt;ところで、マスコミは民衆の声の代弁者なのか？&lt;/p&gt;&lt;p&gt;残念ながらそうなのだ。民衆がそう望むから彼らは書くのであり、そうすることによって発行部数や視聴率が伸びるから彼らは書くのである。&lt;/p&gt;&lt;br&gt;
&lt;p&gt;それにしても、マスコミが代弁し増幅するところの「国民の声」というやつはかなり危うい。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;第一次大戦においてバルカン半島の戦火をヨーロッパ中に拡大させたのは、各国の為政者ではなく国民の声だった。国民の声が政府を動かし、戦争へと走らせたのである。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;また、戦後ドイツに莫大な借金を負わせて第二次大戦の遠因を作ったのも、やはり戦勝国の国民の声だった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;さらにワイマール体制下のドイツにおいて、ヒットラーへの熱狂的な支持というかたちでより直接的に第二次大戦への道を突き進ませたのも、ドイツ国民の声だった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;日本においても同じだ。太平洋戦争への突入をマスコミがこぞって煽ったことはよく知られているが、これも結局はそれによって新聞の発行部数が伸びること、すなわち国民がそれを喜ぶことを見越しての行為だったからだ。&lt;/p&gt;&lt;br&gt;
&lt;p&gt;それらすべての事実を無視して、両世界大戦は「民主主義の勝利」という言葉で総括されてしまった。&lt;/p&gt;&lt;br&gt;
&lt;p&gt;民主主義は本当に勝ったのか？そうではないだろう。実態は民主主義と民主主義との戦いだったのであり民主主義の原理と民主主義の原理が衝突したのにすぎない。そしてその片方がたまたま勝利したに過ぎない。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;民主主義を克服する&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;長谷川三千子は、「民主主義を克服しなければならない」という。そのためには理性の復権が必要だ、という。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;
&lt;p&gt;現代の民主主義理論は、広く「国家」のうちに錯乱を持ち込んだだけでなく、家族の内側にまで入り込んで、そこに「権力者に対する闘争」のドグマを植えつけようとしている。フェミニスト達は、どんな哺乳動物にも何らかの形で見られる雌雄の分業が人間にも存在しているのを見て、それを「不平等」であると糾弾し、攻撃している。そういったことすべてを、「理性」の目は、ただ端的な錯誤と見抜くことができる。&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;民主主義を超える政治体制があるのかどうかはわからない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しかし少なくとも、民主主義が最良の政治体制と言えるものでないことだけは確かだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ぼくたちがよりよい政治を目指すには、もはや「民主主義」というイデオロギーを掲げることでは十分ではない。いやむしろ、「民主主義」というイデオロギーを掲げることがよりよい政治への努力を台無しにしてしまう可能性すら、ぼくたちは考えておく必要がある。&lt;/p&gt;&lt;br&gt;
&lt;p&gt;民主主義とは人間がはじめて選んだ政治体制であった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それはぼくたちが選びとった政治体制であるには違いないが、それは同時にパンドラの箱を開く行為でもあった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;民主主義というパンドラの箱、民主主義という暴れ馬を乗りこなすには、単なる「批判精神」というようなものでは不十分だろう。上で見て来たように、民主主義とはそもそも根本に矛盾を抱え込んだ概念なのである。ぼくたちは、その特質をよく知った上でそれと付き合って行かなければならない。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/5300198911861532428" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/5300198911861532428" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/2006/08/blog-post_22.html" rel="alternate" title="民主主義について" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960.post-5242524070863063853</id><published>2006-07-22T08:21:00.003+09:00</published><updated>2011-03-02T23:52:24.601+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="ユートピアについて"/><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="書評"/><title type="text">そして問題は解決しない</title><content type="html">&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;本当にそうだ。重松さんの作品の登場人物は誰も悪くない。みんな普通の人で、それぞれが問題を抱えている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そして問題は解決しない。問題を抱えて生きて来て、新たな問題に直面し、なんとか乗り越えるも、また新たな問題に向かって生きてゆく。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;夢と現実。そううまくはいかない人生。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それらを肯定する優しさが重松作品には詰まっている。&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;嘉門達夫は「口笛吹いて」（重松清、文春文庫）のあとがきでこう書いている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ぼくは、この「そして問題は解決しない」というくだりが好きだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;table  border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A3%E7%AC%9B%E5%90%B9%E3%81%84%E3%81%A6-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%87%8D%E6%9D%BE-%E6%B8%85/dp/4167669021%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4167669021" target="_blank"&gt;&lt;img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41XYN0WQ5GL._SL160_.jpg" border="0" alt="口笛吹いて (文春文庫)" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;font size="-1"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A3%E7%AC%9B%E5%90%B9%E3%81%84%E3%81%A6-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%87%8D%E6%9D%BE-%E6%B8%85/dp/4167669021%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4167669021" target="_blank"&gt;口笛吹いて (文春文庫)&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" style="border: none;" alt="" /&gt;&lt;br /&gt;
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&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;念のために言っておくと、「解決しない」ことが好きだと言っている訳ではない。そうではなく、「問題は解決しない」そのことを認めている、その潔さが好きなのだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;「問題は必ず解決する」そう信じて生き抜くのは見上げた根性かも知れないが、現実を見据えているとは言えないし、したがってどこか夢にしがみついている点において潔くない。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;それはユートピア思想に他ならない。問題が必ず解決すると言うなら、いつかどこかに問題というもののまったくない世界が存在することになるからだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;彼らは気づいていない。ぼくたちは問題があるから、そこに生きがいを見いだすのだということに。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;だから問題のない世界は、実はユートピアではないのだということに。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それは、少なくない数の知識人が楽園と信じた共産主義社会が実際には楽園などではなかったことと、まったく同じことだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;しかし幸いなことに、この世から問題がなくなることはなく、だからぼくたちは今日もどこかに生きがいを見いだせるのだ。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/5242524070863063853" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/5242524070863063853" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/2006/07/blog-post_22.html" rel="alternate" title="そして問題は解決しない" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960.post-8512801635102135257</id><published>2006-07-05T06:37:00.003+09:00</published><updated>2011-03-02T23:52:42.143+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="書評"/><title type="text">この国に生まれたから</title><content type="html">&lt;p&gt;「新選組！」（大河ドラマ）→「功名が辻」（大河ドラマ）→「功名が辻」（小説、司馬遼太郎）と一筆書きして、今は司馬遼太郎の対談集「歴史を動かす力」（文春文庫）を読んでいる。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;table  border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%82%92%E5%8B%95%E3%81%8B%E3%81%99%E5%8A%9B%E2%80%95%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E%E5%AF%BE%E8%A9%B1%E9%81%B8%E9%9B%86%E3%80%883%E3%80%89-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%8F%B8%E9%A6%AC-%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4167663236%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4167663236" target="_blank"&gt;&lt;img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/514AQJ647TL._SL160_.jpg" border="0" alt="歴史を動かす力―司馬遼太郎対話選集〈3〉 (文春文庫)" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;font size="-1"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%82%92%E5%8B%95%E3%81%8B%E3%81%99%E5%8A%9B%E2%80%95%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E%E5%AF%BE%E8%A9%B1%E9%81%B8%E9%9B%86%E3%80%883%E3%80%89-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%8F%B8%E9%A6%AC-%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4167663236%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4167663236" target="_blank"&gt;歴史を動かす力―司馬遼太郎対話選集〈3〉 (文春文庫)&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" style="border: none;" alt="" /&gt;&lt;br /&gt;
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&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;その中で、歴史作家の故海音寺潮五郎がこんなことを言っている。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;あるテレビの番組で、アナウンサーが子どもたちに「日本が好きですか」と聞いたという。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;子どもたちはみな「好きです」と答える。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「どんなところが好きなのか」と聞くと、「景色がよいから」とか「気候がいいから」という答えが返ってくる。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;それを聞きながら海音寺氏は苦々しい思いだったという。子どもたちの答えはみないつか大人から教えられた答えなのだが、一番肝心なことが教えられていないと。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;海音寺氏は言う。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;何故大人たちは「この国に生まれたからだ」と教えないのか、と。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;「この国に生まれたからこの国が好きだ」。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;その言葉には、ある種の覚悟のようなものが感じられる。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;人間がある国に生まれるということはどうすることもできない運命であり、その運命故にその国を愛し、立派にすることに努力しなければならないのです。（前掲書）&lt;br /&gt;
&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ここでもやはり「いまここ」が重要な位置を占めている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「世界市民」だとか「国際人」だとかいう想念は美しいが、それらのイメージはつまり自分の所在をいったん保留にし、「いまここ」を先に繰り延べる。結果、目の前の現実からぼくたちの目を遠ざける効果を持つ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;今ぼくたちに必要なのは、自分がいま存在しているその場所において否応なしに何かに所属している、そのことに耐える勇気ではないか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;所属するとは実はエネルギーのいることだ。所属しないことよりもはるかに。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;しばしば運命に抗って生きる姿を人は讃える。しかし、讃えるべきなのは実は、運命を受け入れて生きることではないのか。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;愛国心の問題は、そういう地点から考え直すべきことのように思う。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/8512801635102135257" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/8512801635102135257" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/2006/07/blog-post_05.html" rel="alternate" title="この国に生まれたから" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960.post-3102556941882274927</id><published>2006-06-02T07:39:00.001+09:00</published><updated>2015-02-10T21:51:05.904+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="政治"/><title type="text">民主主義とは</title><content type="html">&lt;p&gt;民主主義とは一種の運動のようなものだ。&lt;/p&gt;&lt;br&gt;
&lt;p&gt;それは絶えず民主主義であろうとすることによって民主主義たり得る、そういうものだと思う。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それは理想の楽園ではない。そこに到達すればすべてが解決するような場所ではないし、そこに行くための処方箋があらかじめ用意されているわけでもない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それどころか、「これが民主主義」という明確な何かさえ存在しない。&lt;/p&gt;&lt;br&gt;
&lt;p&gt;何故なら、「民主主義」とは形態の名前ではなく、運動の名前であるからだ。&lt;/p&gt;&lt;br&gt;
&lt;p&gt;アメリカの民主主義は「草の根民主主義」だが、ヨーロッパの民主主義は「ノーブレス・オブリージュ（noblesse oblige）」に支えられた民主主義だ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「賢者」が大衆をリードすべきだというエリート思想が、21世紀の今でもヨーロッパの社会には息づいている。&lt;/p&gt;&lt;br&gt;
&lt;p&gt;一方左翼の人たちは、「日本の民主主義は本当の民主主義じゃない」とよく言う。彼らが漠然と理想にしているのはアメリカ型民主主義なのだろうが、ヨーロッパ人に言わせれば、アメリカの民主主義は「愚者の民主主義」ということになる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;どちらが正しいかではない。それぞれの風土に根ざしたそれぞれの民主主義があるということだ。&lt;/p&gt;&lt;br&gt;
&lt;p&gt;繰り返しになるが、民主主義とは万人が赴くべき場所のことではない。それは、万人がそれぞれの現実において選びとるべき「方法論」の呼び名だ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;同じ方法論で歩いていったとしても、違った現実からスタートした先には、おそらく百万通りの世界像があることだろう。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/3102556941882274927" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/3102556941882274927" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/2006/06/blog-post_02.html" rel="alternate" title="民主主義とは" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960.post-3499056362273897946</id><published>2006-04-21T17:55:00.001+09:00</published><updated>2011-03-02T00:56:39.594+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="評価するということ"/><title type="text">消えてゆく個人と評価</title><content type="html">&lt;p&gt;「個人」というものがやがて消滅していく運命にあるとしたら、いわゆる「評価」という奴はどう変わっていくのだろう。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;評価は企業でも学校でも行われているが、その対象は基本的に「個人」であると考えられる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「個人」は、評価を与えられることによってますますその輪郭を鮮明にする。評価が客観性を志向していればいるほど、その傾向は強くなる。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;これがあなたの正しい評価よ。あなたは今こうなんだから、これからは努力してこうならなきゃいけないのよ。&lt;br /&gt;
&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;しかし、客観的な評価なんてものは、そもそもあやしい。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;一体誰が、どんな点において、客観的な評価を下せるというのだろうか。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;いくら評価基準なんてものをいじくり回してみてもダメだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;すべては「暫定」であることを知るべきだ。ほとんどあらゆるものが「とりあえず」であり、「目安」であるにすぎない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「個人」が最小単位ではなく、「本」が最小単位ではないように、評価もまた最小単位ではありえない。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;評価を基準に据え、その上に座ってものを考えるのではなく、それをボールのようにして誰かとキャッチボールをしてみたらどうだろうか。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;「とりあえず」相手に投げてみるのだ。相手は「ひとまず」受けとめるだろう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;次に相手はどうするだろうか。大抵の人は「投げられたので」投げ返すだろう。もしかすると、「何となく」ポケットに入れてしまう人もいるかもしれない。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そこには「働きかけ」がある。その時そこで、世界が生成している。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そこにはもう「個人」はいない。「関係」があり、「影響」があり、「交通」がある。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;仏教もキリスト教も、はじまったときには聖典はなかったし、僧院もなかった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;語ろうとする口唇があり、傾ける耳があっただけだった。差しのべる手があり、見返す眼差しがあっただけだった。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;いつからぼくたちは固定的なものを好むようになったのか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;教会を建て、聖典を編み、偶像をつくるようになってから、世界の、構造の固定化がはじまった。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;評価表という1枚の紙切れも、拾い上げて丸めればボールになる。折れば紙ヒコーキになる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;引き出しに入れて忘れてしまうよりも、同じ紙切れならそんな風に道具として使ってみた方がよほど有意義だ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そういう場所から、「評価」を考え直してみる必要がある。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/3499056362273897946" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/3499056362273897946" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/2006/04/blog-post_21.html" rel="alternate" title="消えてゆく個人と評価" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960.post-3012703868884983091</id><published>2006-04-20T17:12:00.001+09:00</published><updated>2015-02-05T22:45:12.785+09:00</updated><title type="text">本と個人主義</title><content type="html">&lt;p&gt;毎度同じような話で恐縮だが、本というものも決して最小単位とは言えない。&lt;/p&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ぼくたちは「本」を問題にし、「著者」を問題にする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だが、実際にはキーワードやセンテンスによって本は別の本とつながっているし、何よりも本は外の世界とつながっている。&lt;/p&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;表紙も表紙に刻印された著者名や題名も、自他を区別しアイデンティティーを主張するが、それは本が独立した存在であることを意味しない。&lt;/p&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ぼくたちは好きなところから本を読みはじめるし、好きなところで本を閉じる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ある一節を読んでは、顔を上げ、また本を閉じ、外の世界のことを考える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あるいは、別の著者の別の本を引っ張り出して、同じ主張があるのを確認したりする。&lt;/p&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ウェブがそうであるように、本もまた実際は、リンクでつながったクモの巣なのだ。&lt;/p&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;だから、タイトルや著者名は決してアイデンティティーを主張するものではない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それらは一種のキーワードにすぎない。注意を喚起するための、他とつながり合うための。&lt;/p&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;実際には、情報の送り手にとっては、もうずいぶん前からタイトルも著者名も、一種のSEO（Search Engine Optimization）キーワードだったのかもしれない。人間の「意識」という検索エンジンに引っかかるかどうか、そういう視点でタイトルや著者名は刻印されてきたのかもしれない。つまり、キャッチコピーということだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、受け手であるぼくたちの無意識もそれに気づいていたかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;気づいていなかったのは「意識」、つまり個人の意識だけだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「著作権」が問題になってくるのは、そういうところにおいてであろう。著作権とは垣根のないところに垣根を作るものなのだから、当然と言えば当然だ。&lt;/p&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;本が情報の束であり、人間もまた情報の束である（生命を定義づけているDNA自体が情報の束であった）以上、著作権とは海の真ん中に引かれた国境線のようなものだ。&lt;/p&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;これからたぶん1世紀ほどの間、「個人」をめぐるせめぎあいがつづくだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それはおそらく、「個人」をどう解体するかというプロセスになるだろう。&lt;/p&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;アマゾンが本をページ単位で売るようになった今、その動きがますます加速することは間違いない。&lt;/p&gt;
</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/3012703868884983091" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/3012703868884983091" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/2011/02/blog-post_8215.html" rel="alternate" title="本と個人主義" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960.post-1559275057052963544</id><published>2006-04-19T18:11:00.002+09:00</published><updated>2011-03-02T23:53:43.316+09:00</updated><title type="text">牢獄の壁を破るには</title><content type="html">&lt;p&gt;「自分という牢獄」という話を以前に書いた。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;人はみな「自分」という牢獄に住み、そこから出ようとして出られず苦しむのだと。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;しかし、その牢獄もまた「構造」にすぎないのだと考えてみれば、そびえ立つ壁も堅固なものではなくなってくる。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;自分という牢獄、それを形づくっているのは、自分という輪郭に違いない。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;自分という概念は、そもそも近代ヨーロッパの個人主義が生み出した。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;物質を最小単位に分割していけば原子や素粒子が現れ、それらの間に起きる相互の反応を見ることで世界が記述できる。それと同じように、社会の最小単位は「自分=個人」だ。社会とは個人の集合であり、個人の相互関係である、と。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;だから「個性」が問題となり、「能力」が問題となる。親たちは子どもに能力をつけさせ、個性を磨かせようとする。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;つまり、個人という最小単位がまずあって、それにいろんなパーツを足していくと一個の人間が完成する、そんな思考が働いている。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;table  border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%AB-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%A2%97%E7%94%B0-%E3%81%BF%E3%81%9A%E5%AD%90/dp/4061976753%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4061976753" target="_blank"&gt;&lt;img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41KE8AFDJWL._SL160_.jpg" border="0" alt="シングル・セル (講談社文芸文庫)" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;font size="-1"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%AB-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%A2%97%E7%94%B0-%E3%81%BF%E3%81%9A%E5%AD%90/dp/4061976753%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4061976753" target="_blank"&gt;シングル・セル (講談社文芸文庫)&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" style="border: none;" alt="" /&gt;&lt;br /&gt;
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&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そのようにして、「自分=個人」という概念はぼくたち一人一人の周りに高い壁を巡らせた。細胞壁のように。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;細胞壁と言えば、増田みず子の小説「シングルセル」（講談社学芸文庫）を、学生時代に読んだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;化学処理でバラバラにした細胞を放っておくと、またくっついてしまう。一定条件下ではシングルセルのまま生き続けるが、やがて細胞壁が肥大化して窒息死してしまうのだという。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;牢獄の壁とは、そういうものかも知れない。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;「自分」を意識するかぎり、ぼくたちの眼前には高い壁がそびえ立つ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;その壁を崩そうとするのが他でもない自分自身であるかぎり、掘り崩すその横からまた新しい壁が立ち上がってくる。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そうではなく、「壁」は構造に過ぎず、スナップショットに過ぎないと考えてみよう。自分という実体などどこにもない、と。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;あるのはただ、日々の思考や行動の総体、その傾向だけであり、その総体や傾向に「自分」という名前をつけて呼んでいるだけだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そうしてみれば、自分を変えることさえも、そんなに難しいことではないかもしれない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;必要なのは、「自分」という抽象的な全体を変えようとすることではなく、ただ日々の具体的な行動を変えることだけだから。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;行動心理学の成果がこれを裏付けてくれる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;社会心理学者の山岸俊男氏によれば、日本人は何でも「心の問題」にしたがるが、「優しい人」や「傲慢な人」がいる訳ではない（その傾向くらいはあるかも知れないが、それは確定的なものではない）。ただ、「優しい」行動や「傲慢な」行動があるだけだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;table  border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E5%BF%83%E3%81%A7%E3%81%A3%E3%81%8B%E3%81%A1%E3%81%AA%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA-%E2%80%95%E2%80%95%E9%9B%86%E5%9B%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E5%B9%BB%E6%83%B3-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B1%B1%E5%B2%B8-%E4%BF%8A%E7%94%B7/dp/4480426752%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4480426752" target="_blank"&gt;&lt;img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/518SEZlaLcL._SL160_.jpg" border="0" alt="心でっかちな日本人 ――集団主義文化という幻想 (ちくま文庫)" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;font size="-1"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E5%BF%83%E3%81%A7%E3%81%A3%E3%81%8B%E3%81%A1%E3%81%AA%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA-%E2%80%95%E2%80%95%E9%9B%86%E5%9B%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E5%B9%BB%E6%83%B3-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B1%B1%E5%B2%B8-%E4%BF%8A%E7%94%B7/dp/4480426752%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4480426752" target="_blank"&gt;心でっかちな日本人 ――集団主義文化という幻想 (ちくま文庫)&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" style="border: none;" alt="" /&gt;&lt;br /&gt;
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&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;人間（個人）があって行動があるのではない。むしろ人間は行動の中でものを考え、行動の中で行動を選んでいく。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;何でも口の中に入れて確かめようとする赤ん坊を見てみればいい。対象に働きかけることでぼくたちはそれを知り、それに感情を持ち、またそれに働きかけていく。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;基点にあるのは、まず行動だと言ってもいい。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そのとき、高くそびえるかに見えた塀は突然消え失せて、辺りの風景は一変する。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ぼくたちは「可能性」の中にいる。何も確定的なものはなく、ただその瞬間瞬間の可能性だけがぼくたちを待っている。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/1559275057052963544" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/1559275057052963544" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/2006/04/blog-post_19.html" rel="alternate" title="牢獄の壁を破るには" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960.post-5014841250347095679</id><published>2006-04-18T17:12:00.001+09:00</published><updated>2015-02-05T22:46:42.538+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="音楽"/><title type="text">満員電車を満たす旋律</title><content type="html">&lt;p&gt;車窓の外を流れていく風景を眺めながら、音楽を聴いている。&lt;/p&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;イヤホンから旋律が流れはじめると、人でいっぱいの車内に風が吹きはじめる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;耐えられないほどだった喉の渇きが急速に消えていく。&lt;/p&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;音楽がぼくたちを捉えるのは、そこに「生」のエッセンスが詰め込まれているからかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;音楽がなければ、車窓を過ぎる風景ももっとゆっくりとして、まるで静止しているように見えるかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;世界についての2枚のスナップショットを撮った時に見つかるはずの「相違」、つまり世界を動かしている「動因」にぼくたちはなかなか気づかない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それは世界の動きがあまりにゆっくりとしているからに違いない。日常生活の中では、世界は停滞しているかのように見えて、それだけ構造は堅固に見える。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;動乱の時代にあってさえ、日常とは平和なものだ。いつまでも同じ今日が続いていくと人は思いこむ。&lt;/p&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;音楽には、その「動因」が凝縮して詰め込まれている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;5分足らずの間に繰り広げられる風景の中では、風が吹き、水が流れ、陽が踊り、世界が動き構造が揺れている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ぼくたちが映画を好むのも、きっと同じ理由からだろう。&lt;/p&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;それが「生」というものの凝縮された姿なのだ。&lt;/p&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;たぶん、反戦集会で歌われるメッセージソングにはそれなりの意味がある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;音楽そのものは世界を変えはしないが、世界は確かに動いているのだということを音楽は思い出させてくれる。&lt;/p&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ぼくは反戦家でも好戦家でもないが、そういう気持ちはよく分かる。&lt;/p&gt;
</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/5014841250347095679" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/5014841250347095679" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/2011/02/blog-post_4975.html" rel="alternate" title="満員電車を満たす旋律" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960.post-8810133998495879904</id><published>2006-04-17T18:12:00.002+09:00</published><updated>2015-02-05T22:48:40.277+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="トヨタ生産方式"/><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="構造と力"/><title type="text">システムのせいにするな</title><content type="html">&lt;h3&gt;手の届かないシステムという発想&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;今日もどこかで、誰かと誰かの間で問題が起こる。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そんな時、ぼくたちは目の前にいる当の相手と話し合わず、問題をシステムに委ねようとすることがある。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;
これはシステムの問題だ。システムに問題があるからこんなトラブルが起こる。システムを変えてくれ。
&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;「システム」と呼ばれる対象はその都度変わる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;社会、学校、会社、制度…。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;要するに、そのときぼくたちの手の届かないところにあるものを「システム」と呼んでいるわけだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そこには「構造主義」の思考が影を落としているかもしれない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;言語学から社会学、精神医学まで20世紀の思潮に大きな影響を与えた構造主義革命。その余波が、構造主義など勉強したことのないぼくたちにまで、知らないうちに及んでいるということはあり得る。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;構造主義によれば、ぼくたちの行動は目に見えない「構造」にあらかじめ規定されている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「言語」であれ「文化」であれ、そこには無意識の構造があって、ルールがある。ぼくたちの言葉や思考や振る舞いは、気づかないうちにそれに沿ったものになっている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;現代を生きるぼくたちが、民主主義の概念から外には出られないように、個性や教育という概念から逃れられないように、ぼくたちは誰も、お釈迦さまの掌の上の孫悟空のように、構造の外に出ることができない。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ぼくたちはこう理解する。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;構造がすべてを規定しているのだから、構造を変えないかぎり目の前の問題も解決しない、と。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;構造を、一種の設計図のように考えるわけだ。設計図が間違っているから世界が間違ってしまう。設計図を正せば、世界も正しい姿に戻る、と。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;だが残念なことに、世界は設計図から出来ているわけではないし、構造主義もそんなことを言っているわけではない。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;

&lt;h3&gt;問題を棚上げする&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;「構造」という概念はある意味で便利であり、それゆえに危険な概念だ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;構造を問題にすることによって、とりあえず目の前の問題を回避できる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;構造が問題なのだから、自分たちにはどうすることもできない、と。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;だが、こうも言える。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;問題を構造に委ねることによって、その問題は棚上げされたも同然だ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;何故なら、構造の問題とは解けない問題だから。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;構造は、ぼくたちの「意志」によって成り立っているわけではない。それは、むしろぼくたちの無意識と無意識の連鎖から成り立っている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そうである以上、意志によって構造を操作することはできない。誰も自分の無意識をコントロールすることなどできない。まして他人の無意識をコントロールすることはもっと難しい。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;社会はもちろん、人間が作ったはずの学校や会社、制度でさえ同じことだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;例え人間の意志によって、設計図に基づいて作られたものであっても、人間と人間の間にあるかぎりそこには無意識の構造が生まれる。ぼくたちには手を出しようのない構造が。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;とすれば、構造を持ち出すことは体のいい責任逃れにしかならない。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;善意の人々はもっと前向きにこう考えるかも知れない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;すなわち、構造を改善すれば世の中はよくなる、世の中をよくするために構造を改善しよう、と。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;だが、姿勢がどうあれ、問題を構造の次元に移すことで結果として解決不能にしてしまっている点では同罪だ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;

&lt;h3&gt;世界のクモの巣&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;答えは構造やシステムの中にはない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;前回も話題にしたトヨタ生産方式では、常に「現場」にこだわる。彼らは抽象的なシステム論など論じたりはしない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;トヨタの工場では、何か問題が起こったら、まずは現場に皆を集める。そこで、実際に起こっている現実を見ながら、解決策を考える。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;どこまでも現場にこだわることを通じて、結果としてシステム=構造が進化していく、それがトヨタを支える「カイゼン」の思想だ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そこには、「自分たちの手に届かないところにある構造」という発想はまったくない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;彼らにとって、構造は結果にすぎない。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;構造主義の間違いは、たぶん構造を実体化してしまったところにある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;いや構造主義のために言うならば、構造主義が構造を実体化した訳ではない。おそらくは、「構造」という概念そのものの中に、受け止める人々がそれを実体として捉えてしまうような何かがあるということだろう。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;構造は、現実世界のある瞬間を切り取ったスナップショットにすぎないのだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;スナップショットをいくら問題にしたところで、問題の本質に迫ることはできない。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ただし、抜け道がひとつある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;たとえば、ある一定の時間をおいて、世界についての2枚のスナップショットを撮る。そうすれば、そこには必ず相違が見つかる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そこにこそ構造主義が見落とした世界の実相がある。堅固に見えた構造の破れ目がある。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;静止しているかに見えた構造も、実は動いているのだ。何故か？&lt;/p&gt;&lt;p&gt;答えは簡単だ。ぼくたちの無意識が動いているから。個々の無意識が動けば、その総体としての構造も動く。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;世界を動かしている動因は、他でもないぼくたち自身なのだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;いや、こう言ってしまったら、世界を意志の力で動かそうというのと変わらない。無意識の構造である以上、それはぼくたちの思うとおりに動くわけではない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;たぶん世界はクモの巣のようなものだ。ぼくたちが動けば、それにつれて、その重みの移動とともにクモの巣はかたちを変える。ぼくたちが石を投げれば、その度水面には波紋が広がっていく。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それらの総体が「構造」と呼ばれるものの姿なのだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そもそも世界とぼくたちを別個に捉えてしまったところに問題があるのかもしれない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;世界がぼくたちを規定しているのでもないし、ぼくたちが世界を規定するのでもない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ぼくたちは世界の一部なのだ。ぼくたちの無意識とともに世界は動き、その世界の枠の中でぼくたちは生きている。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;

&lt;h3&gt;目の前の現実に働きかけること&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;そう考えてみれば、解決の糸口はむしろ現場にあると分かる。「構造」という抽象的な全体ではなく、「現場」という局所にこそ、可能性がある。そこでどう振る舞うのか、どう働きかけるのかが問題なのだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;何故なら、現場にあるものだけがリアルなものであり、無意識を変えることができるのは「意識」ではなく「行動」であるから。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;目の前の問題を何とかしたいと思うなら、目の前の問題に働きかける他ない。それこそが世界のクモの巣に変化を与えることなのだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;最近の若者はマナーがなってないと思うなら、その時その場で言葉にすべきだし、抽象的なマナー論やしつけ論に話を転嫁すべきではない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;自分が受けた仕打ちに不満があるなら、制度論や世の中のしくみ論に話を持っていかず、目の前の相手に働きかけるべきだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そうした行為が身体的危険や身分上の危機を招くかもしれないが、そんなことはもとより承知の上の話だ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;現実に対して働きかけるとは、つまりそういうことだからだ。それを恐れているのだとしたら、やっぱり前向きに生きようとはしていないのだと言う他はない。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;今、ここで、自分が何をするのか、常にそのことが問題なのだし、それが生きるということの意味なのだと思う。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/8810133998495879904" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/8810133998495879904" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/2006/04/blog-post_17.html" rel="alternate" title="システムのせいにするな" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960.post-3707065780462754123</id><published>2006-04-07T19:44:00.003+09:00</published><updated>2011-03-02T23:47:56.713+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="トヨタ生産方式"/><title type="text">制度とは正義とは</title><content type="html">&lt;p&gt;いささか乱暴だが、制度と正義には似たところがある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;どちらをめぐる議論も、「絶対」をめぐる議論であるという点において。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そして、どちらも「絶対はない」という事実をなかなか受け入れない点において。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;現代思想とトヨタ生産方式が、まったく異なるアプローチから同時に到達したのは、「完成型はない」ということだった。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;今や国内外の企業から引っ張りだこのトヨタの専門家は、トヨタ生産方式を導入した企業から必ず聞かれるという。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「ウチはいま何点くらいですか？」と。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;トヨタの専門家は答える。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「点数などつけられません。トヨタ生産方式は永遠に進化しつづけるシステムですから」。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;安っぽいキャッチフレーズではない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それが「カイゼン」ということの意味であり、それはほとんど「徒労」と同義の泥くさい現実だ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;永遠にシステムは完成せず、どこまで行っても新しい問題が発生しつづける。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;だが、そのことがトヨタの工場における従業員のヤル気を引き出しているのは興味深い。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;それはまるで人生に似ている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;何度も岩を山上に持ち上げつづけるシーシュポスのように、生きるとは徒労であり、人生とは徒労の形態であると言ってもいい。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しかし、同時にそのことが人生のエネルギーでもあるのだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;今や生命について語るとき必ず引き合いに出されるベルギーの科学者プリゴジン。彼の「散逸構造論」によれば、生命とは内部に増え続けるエントロピー（混沌の量）を絶えず外に吐き出し、そのことによって存在しつづける。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そこに完成型などはないし、むしろ完成型がないことによって生命は存在しつづけることができる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;水道の蛇口から勢いよくほとばしる水が、絶えずその構成粒子を変えながらも、一定の形態を保ちつづける、しかもほとばしりつづけることによってかろうじて水流はその形態を維持できるように。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;考えてみれば、一生の間にぼくたちは何度顔を洗い、何度皿を食器棚に戻し、何度靴紐を結び直すのだろう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それは永遠の反復であり、徒労と言えるかもしれないが、その行為をなぞるごとに、ぼくたちはまた新たに生まれ変わる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;何故なら、それらは単なる反復のように見えて、実はその度ごとに少しずつ異なる顔を持ってぼくたちの前に現れるはずだからだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そうした場所から見返してみれば、物事には完成型があるという近代主義の発想はとても滑稽だ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;トヨタ生産方式に完成型がないように、通知表の理想型などというものはないし、絶対的な評価基準などというものもない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;あるのはどこまでも、さまざまな関係性がその都度生み出す結節点としての評価であり、関係性の水面に投げ込まれた一個の石としての通知表だ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そこから広がる波紋が、また新しい生命のエネルギーとなる。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ぼくたちがしなければならないのは、どこにもない「普遍性」を追い求めることではなく、ただその場その場の状況を見つめ、状況に向かい合って判断を下していくことだけだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そして、そう考えた方が人生ははるかに楽しくなると思うのだが、どうだろう？&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/3707065780462754123" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/3707065780462754123" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/2006/04/blog-post_07.html" rel="alternate" title="制度とは正義とは" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960.post-2772404694863701495</id><published>2006-04-07T06:28:00.002+09:00</published><updated>2011-03-02T00:58:19.873+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="評価するということ"/><title type="text">通知表の価値とは</title><content type="html">&lt;p&gt;あるサイトで、学校の通知表とその存在価値、評価の客観性をめぐる議論があった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そこでも書いたことだが、重要な論点を含んでいるので、ここに再掲する。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;評価をめぐる言説においていつも気になるのは、視点をあまりにも「個」にフォーカスしすぎてはいないか、ということだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;数年前に会社の評価制度改訂を担当した。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;その時に基本においたのは、「行動評価」ということだった。つまり、結果ではなく行動の中身で評価するということだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;その裏には、行動が人間を作り、行動が結果を導く、という行動心理学の知見があった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そのために、高い業績を上げている社員はどんな行動をとっているかというインタビューを社員に行い、分析した結果を評価基準（行動指針）として織り込んだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;この考え方でいくならば、勉強が出来ても態度の悪い子どもは評価されない、ということになる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それでいいと思う。いや、むしろそうあるべきだと思う。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;行動心理学の視点に立つなら、なおさらそうだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;テストの点数をそのまま通知表にすればいいという意見がある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;だがそれなら通知表など要らない。子どもが持って帰ってくるテストだけで十分だ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;通知表の価値はむしろ、テストの点数だけではわからない子どもの姿を第三者の目で見せてくれるところにあるのではないか。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;それがどれくらい客観的かなんてことは、実は重要ではない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;多少偏っていたところで、たいした問題ではないのだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ぼくが担当した評価制度改訂のもうひとつのポイントは、「面談」を制度の核心に据えることだった。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;評価は単独では意味を持たない。面談とセットになって、そこでフィードバックが行われ、認識のズレが（ゼロにはならないまでも）調整されるところに意味があるのだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;評価というのは、どこまでも人間と人間の間にあるもの、人間くさいものだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;人間が人間をどう評価するのか、それが重要なのだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;人間が評価する限り、ある人の評価と別の人の評価との間には、必ずズレがある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そこにコミュニケーションが発生する。むしろそのことが大事なのではないか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;絶対的な評価基準などという幻想は、コミュニケーションの余地を奪ってしまう。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;通知表に秘められたそういう可能性を見ずに、通知表をそれ自体で完結したものとして見るのは、「個」という次元だけでものを見てしまうからだろう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;戦後教育の中で、ぼくたちは「人間は関係の中で生きるのだ」ということを見失いかけているのだと思う。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/2772404694863701495" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/2772404694863701495" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/2006/04/blog-post_6746.html" rel="alternate" title="通知表の価値とは" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960.post-8858765780988722494</id><published>2006-03-25T07:01:00.002+09:00</published><updated>2015-02-05T22:49:32.715+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="ドラマ"/><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="歴史"/><title type="text">肯定の思想</title><content type="html">&lt;blockquote&gt;&lt;table  border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E9%81%B8%E7%B5%84-%E5%AE%8C%E5%85%A8%E7%89%88-%E7%AC%AC%E5%A3%B1%E9%9B%86-DVD-BOX-%E9%A6%99%E5%8F%96%E6%85%8E%E5%90%BE/dp/B0001GGTG2%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB0001GGTG2" target="_blank"&gt;&lt;img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51GM9YVC5BL._SL160_.jpg" border="0" alt="新選組 ! 完全版 第壱集 DVD-BOX" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;font size="-1"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E9%81%B8%E7%B5%84-%E5%AE%8C%E5%85%A8%E7%89%88-%E7%AC%AC%E5%A3%B1%E9%9B%86-DVD-BOX-%E9%A6%99%E5%8F%96%E6%85%8E%E5%90%BE/dp/B0001GGTG2%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB0001GGTG2" target="_blank"&gt;新選組 ! 完全版 第壱集 DVD-BOX&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" style="border: none;" alt="" /&gt;&lt;br /&gt;
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&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;「新選組！」で、堺雅人扮する山南敬助が坂本竜馬に向かってこう言うシーンがある。&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;思想が世の中を変えるのではありません。人と人とのつながりが世の中を変えるのです。&lt;br /&gt;
&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;理想に燃える人は、とかくその理想でもって世界を変える、変えられると考える。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「終戦のローレライ」に出てくる浅倉大佐も、「尊王攘夷」に燃える過激派志士たちもそうだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;table  border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E7%B5%82%E6%88%A6%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%A9%E3%82%A4%EF%BC%881%EF%BC%89-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%A6%8F%E4%BA%95-%E6%99%B4%E6%95%8F/dp/4062749661%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4062749661" target="_blank"&gt;&lt;img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51843FAFJ9L._SL160_.jpg" border="0" alt="終戦のローレライ（1） (講談社文庫)" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;font size="-1"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E7%B5%82%E6%88%A6%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%A9%E3%82%A4%EF%BC%881%EF%BC%89-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%A6%8F%E4%BA%95-%E6%99%B4%E6%95%8F/dp/4062749661%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4062749661" target="_blank"&gt;終戦のローレライ（1） (講談社文庫)&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" style="border: none;" alt="" /&gt;&lt;br /&gt;
福井 晴敏 &lt;br /&gt;
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講談社  2005-01-14&lt;br /&gt;
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&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;しかし、思想はしょせん個人の頭の中の化学反応でしかない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それを共有することは不可能ではないが、本当に共有できるのはせいぜい「思い」の部分でしかない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しかるに、思想というものはいやがうえにも純化を目指していく性質のものだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そこに亀裂が生じる契機がすでに潜んでいる。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;かつての全共闘がどんどん内部分裂を繰り返していったことを見てもそれは分かる。また、あらゆる宗教が創始者の思惑から外れてゆくことを見ても。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「思い」を同じくして集まった者たちがやがて離ればなれになっていくのは、知らずしらず思想が持ち主を離れて独り歩きするからだ。そして純化を経るうちに、もはや「思い」というレベルにはとどまれなくなるからだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;だが、時として純化に向かわず、すべてを包みこんで存在するような思想が存在する。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;例えば、司馬遼太郎は西郷隆盛がそういう人物であったと言う。西郷はあらゆる思想を包含してゆく懐の深さを持った人物であったと言う。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;西郷隆盛と言えば征韓論だが、実際の彼は勝海舟的な「東亞連盟主義」を抱いていたようだ。大使としてソウルや北京に赴き、日中韓の対等の同盟によってアジアを結束させ、西欧列強に対抗する、という夢を近しい者には語っていたらしい。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そうした国際的な思考から当時勃興しはじめていた自由民権運動、また儒教的な理想国家論にいたるまで、さまざまな思想を包含しながら、それらを矛盾なくまとめあげていくような包容力が彼の思想にはあったらしい。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;むしろその懐の深さ故に不平士族たちに担ぎ上げられ、征韓論の中心に祭り上げられてもそれを否定せず呑みこんでいった。その結果西南戦争で散っていかざるを得なかったのは、彼の悲劇性と呼ぶほかないだろう。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;また坂本竜馬という存在もある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;竜馬の思考は、決して理想の世界を夢見ることはない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;目の前の状況を細部にこだわることなくざっくり掴みとり、その中で何と何を結びつければ事態が動くのかを考えようとする、そこに彼の思考の真骨頂がある。そのようにして薩長同盟は成立した。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それはどこまでも現実的な視線だ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;純化を志向する思想にこだわるうち、知らずしらず思想に追い抜かれてしまうのではなく、どこまでも人間について行こうとする。それが西郷と竜馬、二人に共通する生き方であるように思う。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;人は、思想を共有しきることはできない。しかし「思い」を共有することはできる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;むしろ、人はさまざまな「思い」を誰かと共有し、さまざまな「思い」を誰かに（誰かから）受け継ぎながら生きていると言っても過言ではないだろう。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;それらをどうつなげていくかが問題なのだ。「思想」はどこまでも先鋭化していくが、「思い」はもっと漠然とした何かであって、それゆえに人間に近い。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;西郷や竜馬が持ち得たような、「NO」ではなく「YES」に立脚する思考、何かを細部において拒否するよりもまず肯定し許容する思考、それを思想と呼ぶことができるならば、それこそが真に世界を動かす思想たる資格を持っているのかもしれない。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/8858765780988722494" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/8858765780988722494" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/2006/03/blog-post.html" rel="alternate" title="肯定の思想" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960.post-5998377465084811095</id><published>2006-03-22T17:12:00.001+09:00</published><updated>2015-02-05T22:50:59.120+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="Web2.0"/><title type="text">ソーシャルブックマーク</title><content type="html">&lt;p&gt;ソーシャルブックマーク・サービスとは、ウェブのブックマークをウェブで管理するサービスだ。世界的にはdel.icio.us、日本でははてなブックマークが有名どころだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ところで、かつてブラウザのお気に入りを使っていた時には、ブックマークはサイト単位でつけていくのが普通だった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しかし、ソーシャルブックマーク・サービスでは、気になったページをページ単位で片っ端から登録していくのが一般的らしい。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;考えてみれば、ブログがホームページの主流になってからというもの、トップページをブックマークすることにあまり意味がなくなってきた。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;普通のホームページと違って、ブログはトップページ（のコンテンツ）が固定していない。そこはその時点の最新の日記を表示する場にすぎず、日記が新しくなるにつれてトップページのコンテンツもどんどん移り変わっていく。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;トップページをブックマークしておいても、もう一度お目当ての文章に行き着ける可能性は低いのだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;だから、&lt;/p&gt;
&lt;blockquote&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;ちょっと気になったページを覚えておきたいという用途なら、ページ単位のブックマーク（もちろんその日記のパーマネントリンクにブックマークすることが条件だ）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;お気に入りのブログを毎日チェックするという用途なら、RSSリーダーに登録しておいて自動受信&lt;/li&gt;
&lt;/ol&gt;
&lt;/blockquote&gt;
&lt;p&gt;というのが主流になりつつある。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ところで、このページ単位でブックマークするという発想は、実はぼくにとってかなりコペルニクス的な新発見だった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;これは、ブックマークの意味自体を変えてしまうとても大きな事件ではないだろうか。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;サイト単位のブックマークはサイトへの参照をデータベース化するだけだが、ページ単位のブックマークは情報への参照そのもののデータベース化を意味する。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;さらに、ソーシャルブックマークでは記事に「タグ」を付けて分類していくことができる。ひとつのブックマークにタグはいくつでも付けられるから、ページに片っ端から思いつくタグを付けてブックマークしていけば、索引付きの情報データベースが出来上がるのだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;なるほど。というわけで、この考え方を逆用して、まずは当サイトのコンテンツを片っ端からdel.icio.usに登録してみた。もちろんタグ付で。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;次に、del.icio.usの公開API（ちなみに、del.icio.usはAPIを公開しているので、そのデータベースを自分のサイトに自由に取り込むことができる）を通じて、登録したタグの一覧を取得する。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;これを元に構築したのが、こちらのページだ（&lt;a href="http://www.servees.com/commex/deux.cfm?mode=taglist.tag" target="_blank"&gt;http://www.servees.com/commex/deux.cfm?mode=taglist.tag&lt;/a&gt;）。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ご覧いただけば分かるが、大小取り混ぜて並んでいるのが、ぼくが付けたタグ群だ。紐づけられたブックマークが多いタグは、大きいフォントで表示されている（これをタグクラウドと呼ぶ）。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;どれでもいいが、タグをクリックすると、そのタグに紐づけられたブックマークを一覧できるページに飛ぶ。このページももちろん、del.icio.usのAPIを通じて取得した情報を元に構築している。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ここから、個々のブックマーク先の記事を読みに行ってもいいし、また各々のブックマークにはそれに紐づけられたタグの一覧が添えられているので、そこを起点に別のブックマーク一覧に飛ぶことも可能だ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;こうして、百科事典のように項目から項目へと自由自在に飛び移れる索引データベースが出来上がった訳である。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;今回はソーシャルブックマーク・サービスの機能を逆手に取ったかたちで、自分のサイトの索引データベースを作ってみたが、同様の手順で外部サイトのデータベースをつくることはもちろん可能だ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ところで、これは一種の「リゾーム」と言えないだろうか。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;リゾームとは根茎のこと。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ポスト構造主義の第一（二？）人者であるドゥルーズとガタリが、「ツリー」の対立概念として「リゾーム」を置いて以来、この言葉は現代思想の重要なキータームとなっている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ツリーがブラウザのお気に入りのような階層型の構造を意味するとすれば、リゾームはソーシャルブックマーク・サービスのタグのように明確な秩序を持たない構造（？）を意味する。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;上下関係を持つ垂直な構造ではなく、ただどこまでも水平に、なおかつ縦横無尽につながっていくネットワーク。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それは、まさにウェブの姿そのものと言うことができる。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;考えてみれば、これまでウェブを階層型のお気に入りで管理しようとしていたのは、とても滑稽なことだったのかもしれない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ソーシャルブックマークを持つようになってはじめて、ぼくたちはウェブをそのあるがままのかたちで捉えることができるようになったのかもしれない。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/5998377465084811095" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/5998377465084811095" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/2011/02/blog-post_9572.html" rel="alternate" title="ソーシャルブックマーク" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960.post-6117862146317229913</id><published>2006-03-17T18:40:00.001+09:00</published><updated>2011-03-01T23:52:21.592+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="Web2.0"/><title type="text">ローカルとバーチャルの融合</title><content type="html">&lt;p&gt;マスコミの流す情報を信頼してはいけないという論陣を、ついこの間まである場所で張っていたのだが、海の向こうではそんなこととっくに当たり前になっていたようだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;Newsweekの最近の号によると（これも結局はマスコミ情報なのだが^^;）、あるシンクタンクの調査で53%が「ニュースは信用できない」と回答し、「信用できる」と答えたのは9%だけだったという（調査の詳細は不明）。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;一方、米国西海岸のベーカーズフィールドという地方都市で発行されている無料新聞が話題になっているらしい（同じくNewsweekより）。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;同紙にはウェブ版とペーパー版があって、記事はまずウェブ版に掲載され、その中で優れたものが隔週発行のペーパー版に転載される。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;面白いのは、ほとんどの記事が住民からの投稿で成り立っているということ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ブログ感覚でその町に住む人たちが書いてくる記事が主体となっている（原稿料などはない）。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;スキャンダルは一切ない。地元のイベントや学校の出来事、アウトドアや子育てに関するコラムなど、心あたたまる地元の話題が紙面を埋めている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;発行人によると、「ブログに親しんでいたおかげで、記事を書いてもらう市民の間に文章を書くことへの抵抗がなかった」ということだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;こういう話を聞いていると、コミュニティの再生（創造）は可能かもしれないという気になってくる（&lt;a href="http://d.hatena.ne.jp/moaii/20060201/1138797663" target="_blank"&gt;→過去記事参照&lt;/a&gt;）。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ベーカーズフィールドの人口は33万人。ぼくの住む衛星都市とほぼ同じ規模だ（同紙はベーカーズフィールドの北西部を対象としているにすぎないが）。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ウェブを媒介にして、「地元」というキーワードの下にバーチャルな結びつきが強まれば、それが新しいコミュニティ再生（創造）への道筋になるかもしれない。リアルとバーチャルの結合だ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;もちろん、そうした動きがまっすぐにコミュニティの再生（創造）へとつながっていくと考えるのはあまりに楽観的に過ぎるだろう。いろんな停滞や誤算や纂奪や変質があるだろう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;一方、GoogleMapと検索エンジンを組み合わせることで、指定した地域に関するブログをリストアップするWeb2.0サービス（&lt;a href="http://maplog.jp/" target="_blank"&gt;マップログ&lt;/a&gt;）も登場した。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;地域とウェブ。ローカルとバーチャル。そこにはさまざまな可能性が秘められていることは間違いない。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/6117862146317229913" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/6117862146317229913" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/2006/03/blog-post_17.html" rel="alternate" title="ローカルとバーチャルの融合" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960.post-750397475948765489</id><published>2006-03-11T05:46:00.002+09:00</published><updated>2011-03-01T23:51:05.730+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="ドラマ"/><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="文学"/><title type="text">自分という牢獄</title><content type="html">&lt;p&gt;茂木健一郎によれば、「文学とはため息の芸術である」と言う（「クオリア降臨」より）。芝居やドラマも同じなのだろう。「新選組！」を観ていると、そんな気になる。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;table  border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E9%81%B8%E7%B5%84-%E5%AE%8C%E5%85%A8%E7%89%88-%E7%AC%AC%E5%A3%B1%E9%9B%86-DVD-BOX-%E9%A6%99%E5%8F%96%E6%85%8E%E5%90%BE/dp/B0001GGTG2%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB0001GGTG2" target="_blank"&gt;&lt;img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51GM9YVC5BL._SL160_.jpg" border="0" alt="新選組 ! 完全版 第壱集 DVD-BOX" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;font size="-1"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E9%81%B8%E7%B5%84-%E5%AE%8C%E5%85%A8%E7%89%88-%E7%AC%AC%E5%A3%B1%E9%9B%86-DVD-BOX-%E9%A6%99%E5%8F%96%E6%85%8E%E5%90%BE/dp/B0001GGTG2%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB0001GGTG2" target="_blank"&gt;新選組 ! 完全版 第壱集 DVD-BOX&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" style="border: none;" alt="" /&gt;&lt;br /&gt;三谷幸喜 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ジェネオン エンタテインメント  2005-02-25&lt;br /&gt;売り上げランキング : 17619&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E9%81%B8%E7%B5%84-%E5%AE%8C%E5%85%A8%E7%89%88-%E7%AC%AC%E5%A3%B1%E9%9B%86-DVD-BOX-%E9%A6%99%E5%8F%96%E6%85%8E%E5%90%BE/dp/B0001GGTG2%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB0001GGTG2" target="_blank"&gt;Amazonで詳しく見る&lt;/a&gt;&lt;/font&gt;&lt;font size="-2"&gt; by &lt;a href="http://www.goodpic.com/mt/aws/index.html" &gt;G-Tools&lt;/a&gt;&lt;/font&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;たとえば新選組の初代局長芹沢鴨。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;多くの新選組ものでは酒好き女好きで無法者の巨漢として描かれる。三谷幸喜の脚本では、そこにひねりを加えてひと癖もふた癖もある人物に仕立てられている。演ずるのは佐藤浩市。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;近藤勇に同調するかと思えばそっぽを向き、沖田総司を可愛がるかと思えば「お前みたいな澄んだ目をした奴を見ると、徹底的に汚したくなるんだ」と言い放つ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;勤王の志士として筋の通ったところを見せるかと思えば、商家に押し入って金品を強奪する。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;屈折した悪党、それ故に手がつけられない、それが佐藤鴨の姿だ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;すべての人がそうであるように、おそらく彼もまた「自分という牢獄」を生きているのだろう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;抜けようとしても抜けられない牢獄。高い塀を越えようとする者は、ぐるぐると回って元の場所に戻ってくる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;変わろうとする主体が、他でもない自分自身である限りにおいて、変わろうという試みは虚しく終わらざるを得ない。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;しかし、彼を倒す近藤勇や土方歳三にしても、同じようなものだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;変わろうとする時代の風を感じとりながら、彼らは「最後の武士」として生きる道を選ぶ。それが滅びゆく道とたぶん知りながら。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ドラマにしてみれば格好よく見えるその姿も、実際にはすごくぶざまな生き方に違いない。それでも、たぶん彼らはそのように生きる他なかった。それが彼らの牢獄なのだ。そして、そこにこそドラマ=文学があると見るべきだろう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;新選組が敗れ去り、近藤勇が死んだ後も、土方歳三は函館まで転戦してゆき、そこで死ぬ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;聡い彼ならばとっくに気づいていたはずだ。もう刀の時代ではなく、したがって武士の時代でもないということに。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しかし、やむにやまれぬ気持ちに沿って生きた結果、彼はやはり函館で死ぬ以外なかった。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;芹沢鴨と違って、そんな自分に誇りを持って死ねた分、近藤や土方の方が幸福ではあったかもしれない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しかし、そのことは近藤や土方の人生が崇高であったことを意味しないし、芹沢の人生が語るに値しないということを意味しない。悪役には人生の「ため息」が詰まっている。悪役を魅力たっぷりに見せることこそ文学のワザであり、文学の醍醐味であると言えるだろう（そういう意味では、新選組も元々明治維新の悪役だった）。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;生きるということは正しいかどうかではない。そんな風に考えてしまったら、つまらない。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/750397475948765489" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/750397475948765489" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/2006/03/blog-post_11.html" rel="alternate" title="自分という牢獄" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960.post-7475939739219869346</id><published>2006-02-18T20:39:00.001+09:00</published><updated>2011-03-02T23:36:32.509+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="Web2.0"/><title type="text">モノづくりへのこだわり</title><content type="html">&lt;p&gt;「はてな」のブログでこんな話をするのも何だが（笑）、はてなの近藤社長の本が出た。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;table  border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E3%81%B8%E3%82%93%E3%81%AA%E4%BC%9A%E7%A4%BE%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%82%8A%E6%96%B9-NT2X-%E8%BF%91%E8%97%A4-%E6%B7%B3%E4%B9%9F/dp/4798110523%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4798110523" target="_blank"&gt;&lt;img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51CEFZGYJVL._SL160_.jpg" border="0" alt="「へんな会社」のつくり方 (NT2X)" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;font size="-1"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E3%81%B8%E3%82%93%E3%81%AA%E4%BC%9A%E7%A4%BE%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%82%8A%E6%96%B9-NT2X-%E8%BF%91%E8%97%A4-%E6%B7%B3%E4%B9%9F/dp/4798110523%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4798110523" target="_blank"&gt;「へんな会社」のつくり方 (NT2X)&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" style="border: none;" alt="" /&gt;&lt;br /&gt;近藤 淳也 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;翔泳社  2006-02-13&lt;br /&gt;売り上げランキング : 132041&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E3%81%B8%E3%82%93%E3%81%AA%E4%BC%9A%E7%A4%BE%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%82%8A%E6%96%B9-NT2X-%E8%BF%91%E8%97%A4-%E6%B7%B3%E4%B9%9F/dp/4798110523%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4798110523" target="_blank"&gt;Amazonで詳しく見る&lt;/a&gt;&lt;/font&gt;&lt;font size="-2"&gt; by &lt;a href="http://www.goodpic.com/mt/aws/index.html" &gt;G-Tools&lt;/a&gt;&lt;/font&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;このところ近藤社長の話を本やウェブで読むことが多いのだが、彼の話のいいところは読む者を元気にしてくれるところだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ぼくの場合、（前にも書いたように）元気になるとすぐに本を閉じてしまうので、おかげでちっともページが進まない（笑）。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;これも前に書いたことだが、その感じは現代思想の、とりわけポスト構造主義と呼ばれる一群の思想家の著作がもつ軽やかさに似ている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そこに共通するのは、「つながろう」とする欲求であり、高い山を作ることよりも先に進む方を取ろうとする思考方法なのだろう。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;しかし、もうひとつ彼の話がぼくを元気にしてくれる理由がある。それは、彼がとても「モノづくり」にこだわっているということだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;「モノづくり」などと言うと、時代に乗り遅れた重厚長大産業が悔し紛れに言っているような感じもするし、そもそもITベンチャーが「モノづくり」を標榜するというのも妙な感じがするかもしれない。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;しかし、ぼく自身も広告業界という場所にいながら、「モノづくり」にはある種のこだわりがある。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;広告代理店が自前でコピーライターを置かなくなってもう随分たつ（まったくいない訳ではない）。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;広告代理店にいるのは、今やクリエイティブディレクターだけだ。ディレクターが方向性だけを決めて（これはもちろん大事なことだが）、実際の制作作業はプロダクションの仕事となる。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;経営的には合理的だろう。人件費は抑えられるし、旬のいいクリエイターを目的に応じてチョイスできるのだから。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しかし、そこには間違いなくクリエイティビティの空洞化が起きている。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;自動車業界でも、自動車部品のモジュール化が進み、完成車メーカーは組み立てだけやっていても事業が成立するようになった。しかし、今でもトヨタが重要部品の開発を手放さないのは、それを手放した瞬間に技術の空洞化が起こり、部品メーカーの言いなりになってしまうと知っているからだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;広告のクリエイティブも自動車の開発も変わらない。外部化した瞬間に、技術は失われる。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;はてなの近藤社長はそこにこだわっている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;会社が少しずつ大きくなって何が社長として悩みかと聞かれて、彼は「モノづくりの時間が減る」ことだと言う。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;彼はもちろん社長としての目で会社全体を見ながら、経営の舵とりをやっている。その上で、自らモノづくりに携わることの重要性を知っているのだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;table  border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96%E9%80%B2%E5%8C%96%E8%AB%96-%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%A4%89%E5%8C%96%E3%81%AF%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%8B%E3%82%89%E5%A7%8B%E3%81%BE%E3%82%8B-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%A2%85%E7%94%B0-%E6%9C%9B%E5%A4%AB/dp/4480062858%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4480062858" target="_blank"&gt;&lt;img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/511621HKYPL._SL160_.jpg" border="0" alt="ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;font size="-1"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96%E9%80%B2%E5%8C%96%E8%AB%96-%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%A4%89%E5%8C%96%E3%81%AF%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%8B%E3%82%89%E5%A7%8B%E3%81%BE%E3%82%8B-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%A2%85%E7%94%B0-%E6%9C%9B%E5%A4%AB/dp/4480062858%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4480062858" target="_blank"&gt;ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" style="border: none;" alt="" /&gt;&lt;br /&gt;梅田 望夫 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;筑摩書房  2006-02-07&lt;br /&gt;売り上げランキング : 19913&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96%E9%80%B2%E5%8C%96%E8%AB%96-%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%A4%89%E5%8C%96%E3%81%AF%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%8B%E3%82%89%E5%A7%8B%E3%81%BE%E3%82%8B-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%A2%85%E7%94%B0-%E6%9C%9B%E5%A4%AB/dp/4480062858%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4480062858" target="_blank"&gt;Amazonで詳しく見る&lt;/a&gt;&lt;/font&gt;&lt;font size="-2"&gt; by &lt;a href="http://www.goodpic.com/mt/aws/index.html" &gt;G-Tools&lt;/a&gt;&lt;/font&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;はてなの取締役でもある梅田望夫氏の「ウェブ進化論」によれば、IT企業にはメディア志向の会社と技術志向の会社があるという。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;アマゾンや楽天は前者の会社であり、Googleやはてなは後者の会社だ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;前者は生活に関わりの深いサービスを提供しているのでなじみは深い。後者は、なじみという点では劣るが、そのかわりワクワクさせてくれるような何かを持っている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;前者がリアルの世界にもあるものをネットの世界に移し換えただけ（それだけでも存在価値は十分すぎるほどだが）なのに対して、後者はどこにも存在しないサービスを創造しようとしているからだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;Googleとはてなは、ともに検索サービスからはじまりながら、その技術性とクリエイティブ性によって、サービスの枠を猛スピードで広げつつある（Yahoo!は検索サービスからスタートしたが、その後はどちらかと言えばメディア企業として生きようとしているようだ）。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;それを支えているのは、この10年の経営のスタンダードだった「アウトソーシング」の発想ではなく、必要なモノは何でも自前で作ってしまおうという精神だ。その試行錯誤の中で学び、よりよいモノを目指そうという、それこそベンチャー的な精神なのではないだろうか。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;それは、決して経済原理に代えられないものだと思う。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/7475939739219869346" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/7475939739219869346" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/2006/02/blog-post_18.html" rel="alternate" title="モノづくりへのこだわり" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-200966536640992960.post-510940252545465305</id><published>2006-02-17T06:41:00.002+09:00</published><updated>2011-03-02T23:47:15.098+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="キーワード思考の危うさ"/><title type="text">民主化、平和、人権…</title><content type="html">&lt;p&gt;キーワードと言えば、「人権」もひとつの「キーワード」だ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;人権と言えば左翼が好む言葉だが、人権という概念をどう受けとめるかについてはあまり省みられたことがない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;どんな議論をしていても、人権と言われた瞬間に勝負はついてしまうから、省みられることもない^^;&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;「民主主義」という言葉も、ある種の文脈で使われた時には似たような効果を生む。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;実際、アメリカはこの魔法の杖で、旧ソ連圏の親ロシア政権をすでにいくつも倒している。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;親欧米勢力に肩入れして選挙をやらせる。政権側が勝ちそうになると、米国政府系の選挙監視団体が「不正があった」と騒ぎたてる（実際はどちらの陣営も同じくらい不正を行っているらしい）。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;かくして、「腐敗した政権側と民主化を求める野党勢力」という図式が出来上がってしまう。こうなればもう勝負はついたようなものだ。政権側は世界を敵に回したようなものだから。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;チューリップ革命もオレンジ革命もこうしてデッチあげられた。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;「民主化」をキーワードとしたアメリカによる敵対国への攻勢はいたるところで行われている。イラン、中国、北朝鮮…。しかし、その戦略も最近は綻びが目につきはじめた。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;先日中国が、インターネットの検閲は適切である、という談話を発表した。何故なら、青少年に害のあるコンテンツを放置するわけにはいかないからと。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;中国政府のこの見解が妥当かどうかはあまり問題ではない。「民主化」というキーワードで斬りこんだアメリカだが、「青少年に有害なコンテンツ」という自由主義陣営の弱点をつく別のキーワードを投げ返されれば、返す言葉はないということだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;もちろん、「中国政府のインターネット検閲は有害なコンテンツの排除というレベルを逸脱している」という反論はもちろん可能だ。だが、議論にもちこまれた瞬間に、「民主化」という伝家の宝刀の威力はすでに失われている。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;table  border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%AE%E8%80%90%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%E8%BB%BD%E3%81%95-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%A9/dp/4087603512%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4087603512" target="_blank"&gt;&lt;img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51325JZBCFL._SL160_.jpg" border="0" alt="存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;font size="-1"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%AE%E8%80%90%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%E8%BB%BD%E3%81%95-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%A9/dp/4087603512%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4087603512" target="_blank"&gt;存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" style="border: none;" alt="" /&gt;&lt;br /&gt;
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&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;キーワード思考は恐ろしい。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;これをミラン・クンデラは「キッチュ」と呼んだ（存在の耐えられない軽さ」）。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;わかりやすく、大衆を扇動する言葉。深みのない概念。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それらがぼくたちの頭から思考を奪っていく。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「人権」「民主主義」「平和」…。そうした言葉が出てくるところでは、必ず思考停止が起きている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;同様に、「愛国」や「天皇」という言葉を右翼が好んで使うとき、そこにも同じ響きが潜んでいる。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;右でも左でも同じだが、どちらかに偏ると必ず原理主義が頭をもたげてくる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;逆に言えば、生の現実を見ようとせず、思想（キッチュ=キーワード）にすがって生きようとする態度のことを、その向いている方角によって右とか左とか言うのだろう。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;「右傾化」と言う。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;だが、「左」に対して「右」を置いてみたただけでは意味がない。上で見たように、左も右も同じことだからだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そのどちらでもないところに、「保守」という姿勢がある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「革新」という言葉の嘘が明らかになるとき、保守という概念も別の可能性をもって浮かび上がってくる。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;浅薄なキーワード思考に頼ることなく、現実の中で揉まれながら、そこにある生活の手触りのようなものを大切に生きること。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「ローレライ」の主人公のように、大切な人から渡されたものを守りながら生きること。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;地味ながら、そこに「人間」が生きている。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;その手触りのことをクオリアと呼ぶのかもしれない。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;table  border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E7%B5%82%E6%88%A6%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%A9%E3%82%A4%EF%BC%881%EF%BC%89-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%A6%8F%E4%BA%95-%E6%99%B4%E6%95%8F/dp/4062749661%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4062749661" target="_blank"&gt;&lt;img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51843FAFJ9L._SL160_.jpg" border="0" alt="終戦のローレライ（1） (講談社文庫)" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;font size="-1"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E7%B5%82%E6%88%A6%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%A9%E3%82%A4%EF%BC%881%EF%BC%89-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%A6%8F%E4%BA%95-%E6%99%B4%E6%95%8F/dp/4062749661%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4062749661" target="_blank"&gt;終戦のローレライ（1） (講談社文庫)&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" style="border: none;" alt="" /&gt;&lt;br /&gt;
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&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/510940252545465305" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/200966536640992960/posts/default/510940252545465305" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://think.nakagawa.click/2006/02/blog-post_17.html" rel="alternate" title="民主化、平和、人権…" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry></feed>