<?xml version="1.0" encoding="UTF-8" standalone="no"?><?xml-stylesheet href="http://www.blogger.com/styles/atom.css" type="text/css"?><feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom" xmlns:blogger="http://schemas.google.com/blogger/2008" xmlns:gd="http://schemas.google.com/g/2005" xmlns:georss="http://www.georss.org/georss" xmlns:openSearch="http://a9.com/-/spec/opensearchrss/1.0/" xmlns:thr="http://purl.org/syndication/thread/1.0"><id>tag:blogger.com,1999:blog-8886309710332504172</id><updated>2024-12-19T12:28:56.559+09:00</updated><category term="人を評価するということ"/><category term="個性尊重教育"/><category term="教育=文化論"/><category term="結果よりも行動に眼を向ける"/><category term="臨床の知"/><category term="行動評価"/><category term="クオリア"/><category term="人を育てるということ"/><category term="個人よりも行動に眼を向ける"/><category term="個人よりも関係に眼を向ける"/><category term="哲学"/><category term="文化"/><category term="時事"/><category term="進歩主義"/><title type="text">教育をめぐる断章 | 最新記事一覧</title><subtitle type="html">ブログ「教育をめぐる断章」の最新記事をお届けします。</subtitle><link href="http://education.nakagawa.click/feeds/posts/default" rel="http://schemas.google.com/g/2005#feed" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://education.nakagawa.click/" rel="alternate" type="text/html"/><link href="http://pubsubhubbub.appspot.com/" rel="hub"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author><generator uri="http://www.blogger.com" version="7.00">Blogger</generator><openSearch:totalResults>21</openSearch:totalResults><openSearch:startIndex>1</openSearch:startIndex><openSearch:itemsPerPage>25</openSearch:itemsPerPage><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8886309710332504172.post-2064832124659977574</id><published>2007-01-25T07:19:00.002+09:00</published><updated>2011-03-06T21:39:43.828+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="哲学"/><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="時事"/><title type="text">学ばれない教訓</title><content type="html">&lt;p&gt;もう昨年の暮れの話になるが、ある日の「ニュース23」の特集テーマは「学ばれない教訓」だった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;いじめが元で娘が自殺してしまった父親のその後の活動を追いながら、いじめによる自殺が相次ぐ現在を告発しようというのがその趣旨だった。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;問題意識に満ちた特集ではあった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しかしぼくは、そのテーマ設定そのものに一種の進歩主義思想を感じとらずにはいられない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そこで言外に語られているのは、つまり「ぼくたちは教訓から何かを学び取っていくべきである」ということと、「にもかかわらず同じ過ちが繰り返される現実は間違っている」ということだからだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;一見正しいことを言っているようだが、実はそうでもない。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;教訓が正しく学ばれていくなら、やがてすべての社会問題は解決していくことになってしまうが、そうなのだろうか？&lt;/p&gt;&lt;p&gt;むしろ、そういうノー天気な社会観の方が間違っているのではないか？と問いたいのだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;社会とは、絶え間ない努力を重ねればいつか頂上にたどりつく山登りのようなものではない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;むしろそれは、支えつづけていなければたちまち転がり落ちてしまう大きな岩のようなものであって、ぼくたちはそれをひたすら持ち上げつづけなければならないシーシュポスのようなものだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;かつて儒教では、理想の社会を過去（三皇五帝の時代）においたが、それは決してぼくらがたどりつくべき到達点としてではなかった。そうではなく、絶えず維持していかなければたちまち崩壊してしまう現実社会を支える規律として、それを捉えたのだった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;この二つは同じことのようだが実は微妙に違っている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;つまり、現実を否定して理想への道を語るのか、現実をそれはそれとして認めつつ、それをどう律していくかを考えるか、の違いだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そもそも「同じ過ちを繰り返す」というが、同じ過ちなどはこの世にひとつもない。ぼくたちの前に立ち現れてくるのは、常に前とは少しずつ様相の異なった現実だ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;飽くこともなく「告発されるべき権力」というステレオタイプの構図で社会を見るのでなく、そこに何があるのか、そのミクロの構図を見てほしいものだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;現実は多様なパワーバランスによって成り立っている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そこで言うパワー＝権力とは、いわゆる体制権力のことだけではない。文科省や教育委員会が権力であり、また学校や校長、教師が権力であるのと同じレベルで、マスコミという権力があり、親という権力、世間という権力、そして子どもという権力もある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;子どもの中にも、いじめっ子の権力があり、クラスメートの権力があり、もしかするといじめられっ子の権力がある。「道徳的なふるまい」という権力があり、欲望という権力がある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そうした多様な権力＝パワーが、教育という場、教室という場に渦巻いているのであり、必要なことはその渦の中に入って行って、乱流の中から何をつかみ取ってくるかということであるはずだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;しかし、「子どもたちを守ろう！」という大合唱がそうした思考をかき消してしまう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;その声の前では、校長も教師も権力をはぎ取られ、断頭台にひざまづかされたルイ１６世のようにひとりの個人でしかなくなる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;権力とは決して「地位」のことではない。自分を超える何者かの力を借りようとする時、そこに権力が生まれる。地位や金だけではない。「正義」が権力の後ろ盾となることもあるのだ。根拠のない地位や金に比べれば、正義を後ろ盾にする方がはるかにマシではないかというかも知れないが、実際には正義にだってたいして根拠はない。そこにあるのは、せいぜい誰にとっての正義か、ということくらいだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;問題は、正義が教育を行うのではないということだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;正義の名の下に断罪を行うのはいいが、現実はその後にも続いていることを忘れてはいけない。フランス革命が安定した体制に移行するまでにどれだけの血を必要としたかを思い起こしてみるべきだ。恐怖政治があり、ナポレオンの台頭があり、王政の復活があり、また共和制が生まれ、再び帝政が登場し…。同じことはイラク戦争の後のイラクを見てもわかる。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;目に見えるマクロの権力を入れ替えただけでは何の意味もない。いやむしろ教育を行う当事者不在のまま断罪が行われているかぎりにおいて、事態はむしろ悪化しているとさえ言える。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;あるのは、ただ権力を追い落としたことへの満足だけだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ミクロの権力構造を捉え、そこで本当は何が起こっているのかを見ていく必要がある。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;しかし、進歩主義思想にとりつかれた人々は、世界を両極端でしか見ようとしない。そこで問題になるのはいつも正義があるないか、進歩的であるかないか、そして体制の側か反体制の側かだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;進歩主義者が往々にしてドリル学習を好まないのもそれと同根だろう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ドリル学習には一見「進歩」がない。ドリル学習は同じことの繰り返しに過ぎない。だから彼らはそれに耐えられない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;だが、ドリル学習は同じことの繰り返しに過ぎないのだろうか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ぼくたちは一見同じことを繰り返しながらも、変化しているのではないか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そのミクロの変化を見ようとしなければ、世界という問題を解く糸口は見つからない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;もちろん、糸口が見つかったからと言って、世界という問題をすべて解き明かせる訳ではないのだが。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ぼくたちの旅はいつまでも続く。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しかし、ぼくらは「いったいいつになったら彼らは世界が進歩していくという幻想から覚めるのだろうか」とつぶやいてはいけない。そうつぶやいた瞬間に、ぼくたちは進歩主義者と同じ陥穽に落ちてしまうからだ。世界が進歩しないように、人もまたそのように進歩していく訳ではないのだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;かくしてぼくたちは黒でも白でもない薄明の場所に立ちつづける。進歩主義者たちは世界が教訓から学ばないことを嘆きつづけ、ぼくたちはそのことに歯がゆい思いを抱きながらこうして議論をつづける。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;だが、少なくともそれは「徒労」ではない。徒労とは何度も繰り返すものに対するため息の表現だが、世界は上で述べたように決して同じことを繰り返しはしないからだ。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/2064832124659977574" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/2064832124659977574" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://education.nakagawa.click/2007/01/blog-post_25.html" rel="alternate" title="学ばれない教訓" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8886309710332504172.post-1527375672413104108</id><published>2006-11-15T07:26:00.004+09:00</published><updated>2011-03-06T21:40:27.018+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="教育=文化論"/><title type="text">文化が教育にもたらすもの</title><content type="html">&lt;blockquote&gt;&lt;table  border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E9%A0%AD%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%84%E5%AD%90%E3%81%8C%E8%82%B2%E3%81%A4%E5%AE%B6-%E5%9B%9B%E5%8D%81%E4%B8%87-%E9%9D%96/dp/4822245217%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4822245217" target="_blank"&gt;&lt;img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51B2WS99KXL._SL160_.jpg" border="0" alt="頭のよい子が育つ家" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;font size="-1"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E9%A0%AD%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%84%E5%AD%90%E3%81%8C%E8%82%B2%E3%81%A4%E5%AE%B6-%E5%9B%9B%E5%8D%81%E4%B8%87-%E9%9D%96/dp/4822245217%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4822245217" target="_blank"&gt;頭のよい子が育つ家&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" style="border: none;" alt="" /&gt;&lt;br /&gt;
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&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;この本によると、「できる子どもは、子ども部屋では勉強しない」らしい。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;むしろできる子どもの勉強の場は、リビングやダイニングなのだという。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;受験生を持つ数百の家庭を調査した結果だ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;昔なつかしい「ちゃぶ台」での勉強風景は今なお生き続けており、そうした場で家族との対話を続けながら勉強した子どもたちが成績を伸ばしていくということらしい。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;よく「親の学歴と子どもの成績は比例する」という。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;だが、それは「学歴が高い親は所得も高く、所得が高い親は子どもに多額の教育費をかけられるから」というような単純な経済的条件によるものではなく、むしろ上の調査結果に見るような文化的条件によるところが大きいのではないだろうか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;つまり（ぼくの推測だが）、学歴の高い親は子どもとのコミュニケーションを大事にする傾向があり、そのことが子どもの頭を耕す結果につながっているのではないかというわけだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;それは十分あり得ることだ。生まれ落ちた赤ん坊は周囲の環境に働きかけることで世界を知り、その相互作用の中で理解を深めていくのだとすれば。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;子どもにとって、人とのコミュニケーションこそ最もインタラクティブな世界理解の方法であり、最上の学びの場であるというわけだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;こんな風に考える方が好ましいと思えるのは、文化的条件の方が経済的条件に比べて制約としては緩いと思われるからだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;つまり、経済的な条件を努力によって変えることには困難が伴うが、文化的条件の方は必ずしも学歴によって完全に規定されるものではないと思えるからだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;つまり、チャンスは常にある。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;こうした考え方は、以前に提唱した「教育＝文化論」ともつながってくる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;教育を手段・手法において論じるのではなく、「場」において論じること。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;何もかもが（人間も社会も家族さえも！）機能論に陥っていく中で、そうした視点を持つことが重要だと思える。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/1527375672413104108" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/1527375672413104108" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://education.nakagawa.click/2006/11/blog-post_15.html" rel="alternate" title="文化が教育にもたらすもの" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8886309710332504172.post-4317592517999501064</id><published>2006-04-27T08:17:00.003+09:00</published><updated>2011-02-15T12:54:44.981+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="人を育てるということ"/><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="人を評価するということ"/><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="個人よりも行動に眼を向ける"/><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="結果よりも行動に眼を向ける"/><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="行動評価"/><title type="text">行動を評価するということ</title><content type="html">&lt;p&gt;「成果」を出す主体が個人からチームへと移りつつある中で、会社における評価が難しくなりつつある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;評価の対象はあいかわらず個人であるのに（ボーナスや昇格の査定のことを考えるとこの点は今後も変わらないだろう）、成果の主体はチームであるという訳だから、なかなか一筋縄ではいかない。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;先頃富士通が成果主義を全面的に導入して大失敗したのは有名な話だ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そこには成果を客観的に評価するのがきわめて難しいという問題に加えて、個人の成果を問うことが現場に大きな歪みを生むという問題があるだろう。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;成果を上げるのが個人ではなくチームであるなら、評価の方法もそれに合ったものに変えて行かなければならない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そこに「行動評価」の可能性がある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;何故なら、行動には多くの場合他者との「関係」がつきまとうからだ。つまり、行動を問うことは他者との関係の在り方を問うことなのだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;評価には、業績評価、能力評価、行動評価と３つのやり方がある。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;「業績評価」は目に見える数値を元にするから客観的だと思われがちだが、それは営業職など一部にすぎない。多くの場合は成果を数値化すること自体が難しいのだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;営業職の場合でも、一人の成果の背後にはチームや組織の力が隠れていることが多い。それが一人の評価に置き換えられてしまうことは、チームワークの上で問題が多い。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;次の「能力評価」は一見公平に見えるかもしれない。しかし、能力にはもともと偏りがある。能力のないものがそうそう上に上がれるものではない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;結果平等ではなく機会均等が大事だという観点に立てばそれもいいのだろうが、会社の場合はそうもいかない事情がある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;というのも、評価とは社員の能力別ランキングを作ることではないからだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;評価には、「育成」という観点が欠かせない。この点を無視して評価を考える訳にはいかない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;何故なら、人を動機づけるのは「頑張れば評価される」ということであり、この動機づけということこそ経営の重要課題だからだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;その点、業績と能力は必ずしも比例しないが故に、業績評価の方がモチベーションアップに効果的な場合がある。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;この「頑張れば」というところに光を当てたのが三番目の「行動評価」だ。「頑張っている」その様子を評価しようという訳だ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しかし、ただ「頑張っている」というだけでは抽象的すぎて話にならない。「育成」という観点をとる限り、評価にはそれなりの目標が必要だ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;行動心理学によれば、人は行動することによって成長するという。人格がまずあってそいつが行動するのではなく、行動する中から人格が形づくられるのだと。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;となれば、だれもが「アイツはすごい」と言う人を見つけてきて、その人の行動をひとつの指針として置くようにすれば一定の成果が期待できるかもしれない。そこに行動評価の眼目がある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;加えて、先にも述べたように行動は「関係」と密接なつながりを持っている。行動を問うことで関係を問うことができる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;これはチームワークの時代には好都合だ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ぼくの会社の例を挙げると、例えば「報告」という縦のコミュニケーションと「横展（情報を横に展開すること）」という横のコミュニケーションが評価される。また、「役割の遵守（自分の仕事をきちんとやる）」ということと「役割の拡張（三遊間のゴロを取る）」ということが評価される。いずれも他者との関係の中で捉えられるべき行動だ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;マネージャーの評価項目も、「ビジョンを分かりやすい言葉で語っているか」「メンバーに語りかけ、巻き込んでいるか」といった具合で、やはり関係性のつくり方が主題となっている。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ただ、こうしたことを評価するのはやはり難しい。どうしても主観がつきまとうからだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ただ、それは他の評価方法でも実は同じことなのだ。客観的に見える成績や能力を対象にすることで問題を隠蔽しているにすぎない。本当に会社に貢献しているのは誰かを考えようとすれば、たちまちその恣意性が露呈する。結局、客観的と考えているその基準自体が主観的なものなのだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;だから、どちらにしても評価は机の上、紙の上では終わらない。終わってはいけない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;行動評価は現場に出て行かなくてはできない。本人や周囲の人の話を聞かなければ、その人が日頃どんな行動をとっているかはわからないから。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;評価をした後も、どう評価したか、その背景にはどんな観察があったかを伝えなくては意味がない。評価することが目的ではなく、次につなげることが目的だからだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;具体的な行動を話題にして、はじめて評価がきっかけになりうる。結局人が悩んでいるのはいつも「あの時どうすればよかったのだろう」ということだし、「人とどういう関係を持てばいいのだろう」ということだから。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;正解は誰も持っていないが、ヒントなら誰もが持っている。経験が多ければそれだけヒントも多い。そこに先生や上司、先輩の価値がある。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/4317592517999501064" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/4317592517999501064" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://education.nakagawa.click/2006/04/blog-post_27.html" rel="alternate" title="行動を評価するということ" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8886309710332504172.post-6151120728510216319</id><published>2006-04-21T20:59:00.002+09:00</published><updated>2011-02-14T00:52:00.959+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="人を評価するということ"/><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="個人よりも関係に眼を向ける"/><title type="text">消えてゆく個人と評価</title><content type="html">&lt;p&gt;「個人」というものがやがて消滅していく運命にあるとしたら、いわゆる「評価」という奴はどう変わっていくのだろう。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;評価は企業でも学校でも行われているが、その対象は基本的に「個人」であると考えられる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「個人」は、評価を与えられることによってますますその輪郭を鮮明にする。評価が客観性を志向していればいるほど、その傾向は強くなる。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;これがあなたの正しい評価よ。あなたは今こうなんだから、これからは努力してこうならなきゃいけないのよ。&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;しかし、客観的な評価なんてものは、そもそもあやしい。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;一体誰が、どんな点において、客観的な評価を下せるというのだろうか。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;いくら評価基準なんてものをいじくり回してみてもダメだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;すべては「暫定」であることを知るべきだ。ほとんどあらゆるものが「とりあえず」であり、「目安」であるにすぎない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「個人」が最小単位ではなく、「本」が最小単位ではないように、評価もまた最小単位ではありえない。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;評価を基準に据え、その上に座ってものを考えるのではなく、それをボールのようにして誰かとキャッチボールをしてみたらどうだろうか。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;「とりあえず」相手に投げてみるのだ。相手は「ひとまず」受けとめるだろう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;次に相手はどうするだろうか。大抵の人は「投げられたので」投げ返すだろう。もしかすると、「何となく」ポケットに入れてしまう人もいるかもしれない。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そこには「働きかけ」がある。その時そこで、世界が生成している。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そこにはもう「個人」はいない。「関係」があり、「影響」があり、「交通」がある。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;仏教もキリスト教も、はじまったときには聖典はなかったし、僧院もなかった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;語ろうとする口唇があり、傾ける耳があっただけだった。差しのべる手があり、見返す眼差しがあっただけだった。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;いつからぼくたちは固定的なものを好むようになったのか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;教会を建て、聖典を編み、偶像をつくるようになってから、世界の、構造の固定化がはじまった。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;評価表という1枚の紙切れも、拾い上げて丸めればボールになる。折れば紙ヒコーキになる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;引き出しに入れて忘れてしまうよりも、同じ紙切れならそんな風に道具として使ってみた方がよほど有意義だ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そういう場所から、「評価」を考え直してみる必要がある。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/6151120728510216319" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/6151120728510216319" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://education.nakagawa.click/2006/04/blog-post_9386.html" rel="alternate" title="消えてゆく個人と評価" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8886309710332504172.post-3833577969644454108</id><published>2006-04-07T06:28:00.003+09:00</published><updated>2011-02-15T12:55:18.065+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="人を評価するということ"/><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="結果よりも行動に眼を向ける"/><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="行動評価"/><title type="text">通知表の価値とは</title><content type="html">&lt;p&gt;あるサイトで、学校の通知表とその存在価値、評価の客観性をめぐる議論があった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そこでも書いたことだが、重要な論点を含んでいるので、ここに再掲する。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;評価をめぐる言説においていつも気になるのは、視点をあまりにも「個」にフォーカスしすぎてはいないか、ということだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;数年前に会社の評価制度改訂を担当した。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;その時に基本においたのは、「行動評価」ということだった。つまり、結果ではなく行動の中身で評価するということだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;その裏には、行動が人間を作り、行動が結果を導く、という行動心理学の知見があった。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そのために、高い業績を上げている社員はどんな行動をとっているかというインタビューを社員に行い、分析した結果を評価基準（行動指針）として織り込んだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;この考え方でいくならば、勉強が出来ても態度の悪い子どもは評価されない、ということになる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それでいいと思う。いや、むしろそうあるべきだと思う。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;行動心理学の視点に立つなら、なおさらそうだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;テストの点数をそのまま通知表にすればいいという意見がある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;だがそれなら通知表など要らない。子どもが持って帰ってくるテストだけで十分だ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;通知表の価値はむしろ、テストの点数だけではわからない子どもの姿を第三者の目で見せてくれるところにあるのではないか。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;それがどれくらい客観的かなんてことは、実は重要ではない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;多少偏っていたところで、たいした問題ではないのだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ぼくが担当した評価制度改訂のもうひとつのポイントは、「面談」を制度の核心に据えることだった。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;評価は単独では意味を持たない。面談とセットになって、そこでフィードバックが行われ、認識のズレが（ゼロにはならないまでも）調整されるところに意味があるのだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;評価というのは、どこまでも人間と人間の間にあるもの、人間くさいものだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;人間が人間をどう評価するのか、それが重要なのだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;人間が評価する限り、ある人の評価と別の人の評価との間には、必ずズレがある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そこにコミュニケーションが発生する。むしろそのことが大事なのではないか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;絶対的な評価基準などという幻想は、コミュニケーションの余地を奪ってしまう。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;通知表に秘められたそういう可能性を見ずに、通知表をそれ自体で完結したものとして見るのは、「個」という次元だけでものを見てしまうからだろう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;戦後教育の中で、ぼくたちは「人間は関係の中で生きるのだ」ということを見失いかけているのだと思う。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/3833577969644454108" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/3833577969644454108" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://education.nakagawa.click/2006/04/blog-post_1552.html" rel="alternate" title="通知表の価値とは" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8886309710332504172.post-527238342254321551</id><published>2006-02-07T06:38:00.002+09:00</published><updated>2011-03-06T21:40:43.998+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="クオリア"/><title type="text">統計とクオリアと社会政策</title><content type="html">&lt;p&gt;教育という見地からものを語ろうとすると、どうしても進歩主義的な論調になる。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;世界の捉え方に上下関係を持ち込み、上を（先を）目指そうという話になる。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;たぶんそれが教育の本質なのだ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;教育という概念そのものが、進歩主義と切っても切り離せないものなのだろう。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;「捨てる技術」でも知られるマーティングコンサルタントの辰巳渚さんが、ちょうど&lt;a href="http://smallbiz.nikkeibp.co.jp/members/COLUMN/20060130/106638/"&gt;最新のコラム&lt;/a&gt;でこんなことを言っている（以下要約）。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;p&gt;はっきりいって聞き飽きた。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;二極化、勝ち組負け組、下流社会、ロウアーミドル……この数年来、私たちの世の中は同じことを言い続けている。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「統計的には格差は拡大しているとはいえない」「いや、実態は拡大している」といった論争が、この数年来議論がつづけられている。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;誤解を恐れずに言えば、経済格差があろうがなかろうがいいではないか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;人の幸福は、お金や経済指標では計れない。すでに70年代にはGNP（GDP）を疑う議論が生まれているのに、私たちはあいもかわらず「経済」という視点から抜け出せずにいる。&lt;/p&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;たしかに統計では語りきれない個人の生活というものがある。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;茂木健一郎氏の概念で言えば、「クオリア」（質感）がそこにはある。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;「教育文化論」の視点も、その辺をめぐるものであったかもしれない。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;のっぺらぼうな理想や理論ではなく、現実生活の質感に満ちた考え方を私たちは見直す必要があるのではないかということだ。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;しかし一方で、「経済格差があろうがなかろうが」と言ってしまうと、そこからは社会政策的な視点が抜け落ちてしまうのも事実だ。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;社会政策は必要ないのかと言うと、それはやはり必要だろう。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;どうも、個人の生活の質感からものを考えようとすると社会政策的視点が抜け落ちてしまうし、社会政策的視点の方からのみ考えようとすると生活の質感が抜け落ちてしまう。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;その両方をバランスよく視野におさめることは、なかなか難しい。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/527238342254321551" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/527238342254321551" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://education.nakagawa.click/2006/02/blog-post_07.html" rel="alternate" title="統計とクオリアと社会政策" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8886309710332504172.post-1517527255896953998</id><published>2005-12-29T06:30:00.002+09:00</published><updated>2011-03-06T21:40:55.810+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="文化"/><title type="text">学校選択制について</title><content type="html">&lt;p&gt;「教育界に新風を」という抽象論からスタートして制度論を考えていくと、ひとつの方法論として学校選択制が浮かび上がってきます。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しかし、「教育=文化」論の見地から考えるなら、学校選択制は地域文化を破壊する方向にはたらくのではないかという懸念があります。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;子どもの頃を思い返してみると、私のところは下町（地方都市ですが）だったせいもあって、悪ガキから優等生まで、「地域」というくくりだけで一緒に遊んでいたのを思い出します。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;大学の附属小学校に通う子どもも近所にはいましたが、当然のことながら彼は地域のグループからは外れていましたね（母親どうしが親しかったために、私自身は彼とも仲よくしていたのですが）。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そうした（地域から外れた）子どもがいること自体は全然否定しないのですが、上の文脈で考えてみた時、学校選択制とは地域がそういう子どもばっかりになることを意味してるんだろうなと思いました。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;学校選択制とは、極めて個人主義的な方法論なのでしょうね。学校や文化を「創っていく」という発想はみじんもなく、ただあるものの中から選択しようというわけですから。まるで自分たちが教育を買う消費者であるかのように。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;その考え方の根底には、学びを学校の中で完結可能なものと捉え、人間を「個」において完結可能なものと捉える発想があると思われます。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それは確かに個人主義に間違いありません。個を取り巻く「関係性」を見ない点において。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;それに対して、学校だけで学びは完結しないということをここまで述べてきました。学びには、地域の文化や家庭の文化といった環境が大きく作用するし、そこでの経験が重要な要素となるだろうと主張してきました。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;もしそう考えるなら、学校選択制には大きな問題があるというべきではないでしょうか。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/1517527255896953998" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/1517527255896953998" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://education.nakagawa.click/2005/12/blog-post.html" rel="alternate" title="学校選択制について" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8886309710332504172.post-7165698357694012825</id><published>2005-12-28T07:38:00.002+09:00</published><updated>2011-03-06T21:41:51.223+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="臨床の知"/><title type="text">教師の裁量幅を広げる</title><content type="html">&lt;p&gt;教師という仕事は、優れて臨床的な職業と言えますね。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;昨今の教育論のひとつの問題点は、この「臨床」という視点が抜け落ちて、制度論に話が終始してしまっていることかも知れません。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;確かに、臨床論は定型化・一般化できないので、議論の俎上に乗せにくいのが実情でしょう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;制度は誰の目にも見えますから、議論しやすいと言えます。しかしその実、制度の全体像を見通している人はそういませんから、歪んだ議論が横行しやすいということかも知れません。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;教師が尊敬され、全幅の信頼を寄せられていた時代には、教師は臨床の知を存分に発揮できたことと思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それが消えつつある現在、「教える」ということ自体が不可能になりつつあるのかも知れません。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;医者が信頼されなくなれば、恐らくまともな治療は不可能になるであろうことと、それはパラレルな状況であるような気がします。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;臨床の知を守り育てるためには、どうしたらいいのか？&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;それは現在の世間の流れとは逆で、教師の裁量の幅を広げる方向しかないのではないでしょうか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;企業が顧客満足度を上げようと思ったら、現場の裁量の幅を広げることだだと言われています。現場を信じ、現場に任せるということですね。そこから「真実の瞬間」が生まれるのだと言われています。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;教育の現場においても、同じことが言えるのではないでしょうか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しかしそのためには、問題ある教師をどのようにして排除するかという方法論も、同時に求められてくるでしょう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;企業においてならば、顧客満足を維持するための方法論として、顧客へのアンケートという手法があり得ます。しかし、教育は（少なくとも義務教育は）市場におけるいわゆるサービスとイコールではありません。子どもは成熟した消費者とは言えず、親はサービスの提供の場に立ち会っていません。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;単純に市場の方法論を援用することには問題があります。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;恐らくこれら二つはセットでしょう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;前者（現場の裁量拡大）が欠ければ教育は恐らく成立しませんが、後者（質の維持）が欠ければ現在の世論はたぶん納得しないだろうからです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;逆説的ですが、後者のための方法論を見つけることこそが、教育現場に臨床の知を実らせるために必要ことなのかも知れません。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;その方法論は、完璧主義であってはならないと思います。究極を目指す方法論は、現場を痩せさせるでしょう。窮屈な状況では、臨床の知は十分に機能しないでしょう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;たとえば全体の8割がうまくいっていればいい、何かそういう思想と方法論こそが求められているのではないかと思います。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/7165698357694012825" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/7165698357694012825" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://education.nakagawa.click/2005/12/blog-post_28.html" rel="alternate" title="教師の裁量幅を広げる" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8886309710332504172.post-8485462992003869048</id><published>2005-12-25T22:26:00.002+09:00</published><updated>2011-03-06T21:42:34.212+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="臨床の知"/><title type="text">臨床という姿勢</title><content type="html">&lt;p&gt;「進歩主義」に対して、私たちが目指すべきなのは、「臨床」という姿勢ではないでしょうか。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;たとえば、病人を前にした医者は、決して「人体はこうあるべき」などという理想論をぶったりはしません。ただ病状を調べ、最適な治療方法を考え、実行します。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それは、必ずしもうまくいくとは限りません。四方八方手を尽くしてやっと治ることもあれば、ついに治らないこともあります。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それは、常に現実との格闘であると言えます。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ここで、次のような議論が出てくるかも知れません。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;臨床の姿勢は往々にして対症療法になるのではないか、と。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;よく言われるように、病気というものは症状そのものに問題があるわけではありません。 &lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;風邪をひいて熱が出るのは、免疫システムがうまく働いている証拠だし、それをただ下げてしまったら、治る風邪も治りません。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;解熱剤とは、あまりに熱が上がりすぎて、かえって自己治癒力がうまく発揮されないようなときに使うものでしょう。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;「薬漬け医療」という問題が生まれてきてしまうところに、西欧医学（ひいては西欧近代）の問題点が潜んでいると言えます。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;すべての問題を「解決」してはいけない、というのはこういうことだと思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;西欧医学はある意味で「よく効く薬」ですから、とても便利です。で、ついつい使ってしまう結果、目先の痛みは取り除けるのですが、身体全体としての治癒力はかえって低下してしまう、というわけです。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;教育をめぐっては、理想論と薬漬け医療が結びついて大きなうねりを形成しているように見えます。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;その中で、「臨床」という視点、それに「自己治癒力」というふたつの視点が、これから教育を考える上での重要なポイントになってくるような気がするのです。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/8485462992003869048" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/8485462992003869048" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://education.nakagawa.click/2005/12/blog-post_25.html" rel="alternate" title="臨床という姿勢" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8886309710332504172.post-1885939365898600197</id><published>2005-12-25T01:37:00.002+09:00</published><updated>2011-03-06T21:42:47.752+09:00</updated><title type="text">光と影</title><content type="html">&lt;p&gt;この2年ほど情報システムの開発を担当していますが、来年の本格導入を控えての大工事のため、この3連休は休日出勤です（正月を除いて、2月まで毎土日ごとに工事はつづきます）。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;平日はネットワークを止められないので、そういうスケジュールにならざるを得ないのです。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;平日の円滑なシステムの運用のために、世の中のシステム担当者はみな休日か深夜に仕事されているのでしょう。かと言って、平日に休めるかと言うと、トラブルは平日・日中に起こるものであって、それを休日・深夜に直すわけですから、世のシステム担当者はいつ休んでいるんだろうかと心配になってきます。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;残業が多いことで有名な広告業界も、最近は役所の指導がきびしいこともあって会社ぐるみ残業規制に乗り出していますが、システム担当者だけは別のようです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;今や多くのものがシステムの上に乗っかっていますから、しかたないんですね。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;それにしても、システム化すれば問題は解決する、嘘のようですが、そう考えている人が私の会社でも多いようです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;これは光の部分だけを見た理想論ですね（○○すれば問題は解決してみんな幸せになれる。○○にはいろんなものを入れることができます）。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;だから、ある日システムが止まると大騒ぎになります。とっくの昔に解決してごみ箱に放り込んだはずの問題が、また急に出現するからびっくりするのです。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;「問題は解決などしない。それはいつもここにある。ただ見えなくなっただけだ」。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;システムが問題を解決してくれる（これを私は理想論と呼びます）のではない、システムを使って「人間が」どう現実と渡り合っていくのか、そのことこそが問題なのだと思います。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;教育もまた同じですね。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;教育改革が問題を解決するわけではない。教育制度とは、いわばツールです。それを使って現実と格闘するための。教育改革とは、そのツールを取り替えようということにすぎません。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;理想論において教育改革を叫んでいる人は、それが実現したあとも、ちっとも変わっていない現実（または別のかたちで現れてくる現実）に対して、新たな不平を持ち出すだけだろうという気がします。何故なら、システムが変わっても人間は変わらないからです。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;教育制度がツールにすぎないならば、それはスタート地点でしかないはずです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そういうことを現実主義と私は呼んでいます。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/1885939365898600197" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/1885939365898600197" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://education.nakagawa.click/2005/12/blog-post_1234.html" rel="alternate" title="光と影" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8886309710332504172.post-3677442403613587148</id><published>2005-12-21T06:28:00.003+09:00</published><updated>2011-03-06T21:43:01.964+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="進歩主義"/><title type="text">進歩主義と決定論</title><content type="html">&lt;p&gt;人間はどこまでも快適性を追求せずにいられないところがありますから、どんどんエスカレートしていけば、完璧を求めるようになります。 &lt;/p&gt;&lt;p&gt;それもまた人間性のうちと言ってしまえばそれまでなのですが、これが進歩主義と結びついて正当化されてしまうと、弊害の方が目立ってくるような気がします。 &lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;進歩主義というのは、決定論と結びついています。 &lt;/p&gt;&lt;p&gt;しつけがうまくいっている子は切れない。対話がうまくいっている先生の学級は崩壊しない。楽しい授業ができていれば、落ちこぼれは出ない…。 &lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;こうした考え方をする人たちは、たぶん良心的な人で、子どものことをよく考えているのだろうと思いますが、そのことがかえって子どもたちを苦しめる可能性については考えていないのではないでしょうか。 &lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;もし、授業が楽しければ落ちこぼれは出ないと言うなら、楽しい授業にも関わらずついていけず落ちこぼれてしまった子どもの逃げ場はどこにもなくなります。 &lt;/p&gt;&lt;p&gt;不登校児による著書『不登校、選んだわけじゃないんだぜ！』でも、「不登校でも社会に出てうまくやっていける」と言ってしまった瞬間に、うまくやっていけなかった者はもっと苦しむことになる、その問題性が告発されています。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;table  border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%8D%E7%99%BB%E6%A0%A1%E3%80%81%E9%81%B8%E3%82%93%E3%81%A0%E3%82%8F%E3%81%91%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84%E3%82%93%E3%81%A0%E3%81%9C-%E3%82%88%E3%82%8A%E3%81%BF%E3%81%A1%E3%83%91%E3%83%B3-%E3%82%BB-%E8%B2%B4%E6%88%B8-%E7%90%86%E6%81%B5/dp/4652078072%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4652078072" target="_blank"&gt;&lt;img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/61AQJY0VG2L._SL160_.jpg" border="0" alt="不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;font size="-1"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%8D%E7%99%BB%E6%A0%A1%E3%80%81%E9%81%B8%E3%82%93%E3%81%A0%E3%82%8F%E3%81%91%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84%E3%82%93%E3%81%A0%E3%81%9C-%E3%82%88%E3%82%8A%E3%81%BF%E3%81%A1%E3%83%91%E3%83%B3-%E3%82%BB-%E8%B2%B4%E6%88%B8-%E7%90%86%E6%81%B5/dp/4652078072%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4652078072" target="_blank"&gt;不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" style="border: none;" alt="" /&gt;&lt;br /&gt;
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&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;この世界に決定論は存在しません。 &lt;/p&gt;&lt;p&gt;かつてアインシュタインは、量子力学の登場を目の当たりにして「神はサイコロを振らない」と言いましたが、それが間違っていたことはその後の量子力学の成功が証明しています（量子力学の世界には確率しかありえません）。 &lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;彼らは、子どものことを考えているつもりが、たぶん気づかずにもっと過酷なことを子どもに要求しているのだと思うのです。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;よく「子どもの無限の可能性を信じる」などと言いますが、進歩主義の文脈でこれが語られるとき、言っている人は子どもの無限の可能性など信じちゃいないのではないでしょうか。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;何故なら、本当に子どもの無限の可能性を信じているなら、どう転んでも子どもはたくましく生きていってくれると考えるはずだからです。子どもの可能性を信じていないからこそ、こんなことをしたら子どもがダメになってしまうんじゃないかとか、こうし てやらなければまともな子どもには育たないんじゃないかと考えるのでしょう。 &lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;「無限の可能性」ということは、「想像もつかない」ということです。大人の想像の範囲内で子どもの未来をコントロールできるという発想が、子どもの可能性を尊重しているはずがないと思うのです。 &lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/3677442403613587148" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/3677442403613587148" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://education.nakagawa.click/2005/12/blog-post_21.html" rel="alternate" title="進歩主義と決定論" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8886309710332504172.post-1375788727642148487</id><published>2005-12-15T07:11:00.002+09:00</published><updated>2011-03-06T21:43:54.306+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="個性尊重教育"/><title type="text">「経験」が独創性を生み出す</title><content type="html">&lt;p&gt;前の日記で私は、「独創性は個性よりもむしろ関係性（チームワーク）から生まれる」と述べました。その中で、「心配しなくても（画一的教育の中で育った私たちでさえ）十分個性的だ」とも言いましたが、さらに「個性」について掘り下げて考えるなら、私はこう思います。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そのコアには、個人の考え方、感じ方の傾向のようなものがまずありますね。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;普通はこれをもって「個性」と呼ぶのかも知れませんが、私はこれと並んで「経験」を置きたいと思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ブレストの場で、参加者のチームワークに次いで意味をなすのは、この経験というやつです。同じ企業風土の中で育ち、いつも顔を合わせている仲間の間で決定的に異なっていて、豊かなアイデアの源泉となるのが「経験」です。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;多分このふたつは相補的にはたらくのでしょう。前者（個性のコア）は後者（経験）によって磨かれ、後者は前者によってより豊かなものになる。独創性をめぐる議論において、私は経験のもつ重要性にもっと光を当てるべきだと思います。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;問題は、教育に何ができるかです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;個性尊重教育において焦点となっているのは、前者（コア）でしょう。後者（経験）はその存在さえ十分認識されていません。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;それでは、学校でもっと「経験」を重視した教育を行えばいいのか？&lt;/p&gt;&lt;p&gt;たとえば、卒業制作や文化祭などはとても有益だと思います。ただ、個性尊重教育はそういうものを見ようとはしていませんよね。個性のコアにだけ光を当てるかぎり、みんなで「画一的に」学ぶ経験には意味がないことになるからです。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;たしかにそれには一理あって、学校という限られた空間で得られる経験には限界があります。何より経験は私的なものでなくてはなりません。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そう考えてくれば、いずれの面においても「独創性」を学校で養おうという考え方自体が転倒していると言えるのではないでしょうか。それは、学校で習うものではあり得ないのです。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/1375788727642148487" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/1375788727642148487" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://education.nakagawa.click/2005/12/blog-post_15.html" rel="alternate" title="「経験」が独創性を生み出す" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8886309710332504172.post-7562681364121226784</id><published>2005-12-09T19:11:00.002+09:00</published><updated>2011-03-06T21:44:10.483+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="個性尊重教育"/><title type="text">「個性」尊重教育は独創性を育てるか</title><content type="html">&lt;p&gt;個性と独創性とは違いますよね。個性とは、独創性のある人もない人もいる、そういうことを指して個性と呼ぶのではないでしょうか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;独創性ある「個」人を育てようというなら、見所のありそうな奴を見つけて英才教育でもやればいい。全員のあるがままの個性を尊重したところで、独創性のある人間は増えないと思います。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;しかし、実を言うと私はそういう独創性の捉え方自体が違うのではないかと考えています。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;「違う」というのは言い過ぎかも知れませんね。そういう独創性もあるかも知れません。しかし、実際に企業の中で働いていて、しかも一応はクリエイティブと呼ばれる業界で仕事をしていて痛感するのは、独創性とは「個」から生まれるものではないということです。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ブレインストーミング（略してブレスト）という手法がありますね。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;数人でお互いのアイデアをなるべく否定しないように、連想ゲームのように話をふくらませていくうち、思ってもいなかったようなアイデアが生み出せるという手法です。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;芸術家ならいざ知らず、企業において有用なアイデアは往々にして、そういうプロセスから生まれてくるような気がします。芸術家だって、一人じゃぱっとしなくてもデュオを組んだらすごい音楽が生まれたりしますよね。近年、企業においても「コラボレーション」という考え方がもてはやされるのは、そこを見直して行こうという動きではないでしょうか。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;もしかしたら、独創性こそチームワークから生まれるのかも知れませんね。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;単純労働なら「個」人の集まりでも十分できますが、複雑かつ創造的な仕事になるほど、集団でどう考えるかということが重要になってくるのではないでしょうか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;何度も引き合いに出すトヨタ生産方式においても、現場の小集団から生み出されるカイゼンがその独創性を支えています。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;チームワークで発想するにしても、個性のぶつかりあいが必要だという意見があるかも知れません。みんなおんなじだったら、発想も膨らまないじゃないかと。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しかし、そんな心配は無用だと私は思います。実際にブレストをやってみれば、画一的な教育を受けて育ったはずの私たちの世代でさえ、十分に個性的だからです。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;経験的に言って、独創的なブレストに必要なのはことさらに強調される個性ではなく、他者と同調できるかどうかだと思います。セッションの中で同調律を作り出せるかどうか。それと、前向きに考えられることでしょうか。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そう考えてくれば、日本人もまだまだ世界で勝負できるし、独創性をとるか学力をとるかという奇妙な議論に振り回される必要もないのではないかと思います。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/7562681364121226784" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/7562681364121226784" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://education.nakagawa.click/2005/12/blog-post_09.html" rel="alternate" title="「個性」尊重教育は独創性を育てるか" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8886309710332504172.post-4158985782102576103</id><published>2005-11-27T20:33:00.003+09:00</published><updated>2015-02-05T23:54:40.339+09:00</updated><category scheme="http://www.blogger.com/atom/ns#" term="教育=文化論"/><title type="text">「教育=文化」論</title><content type="html">&lt;h3&gt;社員教育の経験から&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;私は2、3年前に2年間ほど会社の社員教育を担当していました。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それまでの人事プロパーによるおさだまりの研修にははなはだ疑問を感じていたので、短期間に数多くの研修をこなしつつ、現場経験者ならではの問題意識から社員教育のあり方について模索しました。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そのときに感じたのは、教育とは文化そのものである、ということです。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;私の会社は、広告代理店というきわめてやわらかい=ルーズな企業風土を持つ会社です。しかし親会社はメーカーなので非常に硬い風土を持っています。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;近年、親会社の風土を背負った取締役が乗り込んでくるようになって、私たちの企業風土は否定されがちでした。 &lt;br /&gt;
そりゃそうでしょうね。メーカーから見れば、こんないい加減極まりない業界があっていいのか、というのがマスコミ業界ですから。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そんな事情を背景に、来る日も来る日もさまざまな層の研修をやっていた中で、ひとつはっきり見えてきたことがありました。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;自分たちでも気づいていなかったことですが、広告業界の人間は議論好きなんですね。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しかもそれを短時間にまとめあげるのがうまい。この点は外部の研修機関のトレーナーが異口同音に驚いていました。 &lt;br /&gt;
たしかに、研修の中でグループ討議なんかをやらせると、ものすごくうるさいんです。それでいて時間になるとビジュアルな発表資料がきちっと出来ている。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ここ数年支配的になりつつあった親会社の文化の影響と、大量の中途採用のためにオリジナルな文化が曖昧化していたのですが、こうした研修の場に居合わせて、これこそが文化の共有なんだろうなと思ったのでした。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そして、何をどう教育するにせよ、連綿と息づいている文化性を無視した教育はありえないと感じたのです。むしろそここそ教育を考えるうえでのスタート点であると。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;それぞれの文化&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;さて、日本には日本の文化があり、地域には地域の文化があります。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;同様に、日本には日本の教育があり、地域には地域の教育があるのではないでしょうか。 &lt;br /&gt;
それはそれぞれの国や地域の文化に支えられたものなのだと思います。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;いろんな文化があります。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;庶民的な文化、荒くれの文化、ハイソな文化、自由志向の文化。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;教育熱心な文化もあれば、教育に重きを置かない文化、もっと実質的なものを重んじる文化もあるでしょう。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;フィンランドの教育に学ぶのもいいでしょう。学ぶところはきっとあるでしょう。また、これまでの学校教育を否定するのもいいでしょう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しかし、教育とは文化であり、文化を伝えていくことである、このことを忘れてはいけないと思います。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;私も海外の仕事をしていたことがあるので、外国を知ることの重要性はよく知っているつもりです。しかし、外国と比較してどうする、と思うのです。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;大切なのは、どんな文化を私たちは生きているのかという振り返りであり、どんな文化を受け継いでいこうとしているかについての認識の共有ではないでしょうか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;100の方法論よりも（それも必要ですが）、そういうことの認識とそれを話し合える場こそ必要であるように思います。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;「教育に失敗があってはならない」という言い方があります。これに私がなじめないのは、それが完全性を志向しているからではなく、それが文化を視野に入れていないからかもしれません。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;文化に「成功」も「失敗」もないように、教育は「失敗」とか「成功」というものと元々無縁なのではないかと思うのです。むしろそういうものとして教育を捉えるべきではないかということです。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;文化とともに生きる&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;病因を追求し、取り除こうとする外科手術的なやり方がとりわけ精神医学の分野で袋小路にはいりこんでいるように、学校を問題視し、教育を変えていこうとする考え方もまた、すでに袋小路にはいりこんでいるのではないでしょうか。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;とかく理想主義者は文化を軽視しがちです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;かつて共産主義国家が、計画経済を傘下の地域や国家に押し付けた結果、そこにあった地場産業を壊滅させてしまったのはいい例です。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;また、先日ジェンダー主義者たちが、女性の入山を禁止している大峰山への入山を強行しましたが、あれなども文化の重さを理解していないが故の愚行でしょう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;文化は理屈でないところに息づいているものだし、人は理屈以前に文化とともに生きているのだということを彼らはまったく理解していないと思われます。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;もちろん、文化には抑圧的な面があることは認識しておくべきです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;文化を守り慈しんでいくべきものと固定的に捉えてしまうと、教育は抑圧の道具と化すでしょう。文化の中には悪弊も少なからず含まれているからです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;文化は、絶えずあたらしく創られていくものでもあることを忘れてはいけませんが、少なくとも教育はいまある文化の延長線上に考えられるべきなのではないでしょうか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;文化を無視したところに教育はありえないのだと思います。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;何のために勉強するのか、何のために教育はあるのか。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;以前「社会に通用する、また社会にとって有用な人間を育てるため」という答えを出したことがあります。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;また「子どもの可能性を発見し、育てるため」という答えを出した方もいらっしゃいました。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そのいずれも間違いではないと思いますが、「個」ではなく「人類」という種の観点からより根源的な答えを求めるなら、「教育とは文化である。文化を受け継ぐためにこそ私たちは勉強するのだ」ということではないかと思うのです。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;日本人の数学嫌い&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;&lt;a href="http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/001/04120101.htm" class="link"&gt;先のPISAの調査&lt;/a&gt;で日本の子どもの数学嫌い、数学離れが明らかになったと言われています。根拠となっている数字を以下に掲げます。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;「将来就きたい仕事に役立ちそうだから、数学は頑張る価値がある」49.4％（香港74.3％、フィンランド73.0％）、&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「将来の仕事の可能性を広げてくれるから、数学は学びがいがある」42.9％（フィンランド87.5％、香港82.1％）、&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「自分にとって数学が重要な科目なのは、これから勉強したいことに必要だからである」41.4％（フィンランド73.9％、香港70.4％）。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;数学リテラシーの分野では一位グループを堅持しているにも関わらず、日本の子どもの数学離れが進行していると言われるのは、こうしたデータが元になっています。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;複眼的思考を保つために、ここはすこし斜めから見てみましょう。私はむしろフィンランドや香港の数字の高さの方に違和感を感じるのです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;ここはよく考えてみたいところですが、日本人の私たち自身は数学がこれほど子どもの将来に役立つとほんとうに考えているでしょうか。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;数学というのは、あらゆる学問の中でもっとも抽象性の高い学問です。もっとも科学的な学問だと言ってもいいでしょう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そういう学問に対して、私たちの文化はいまひとつ重要性を見いだしていないように感じます（ぴんと来ていないといった方が近いでしょうか）。それどころか、私たちの社会は「学問」だとか「科学」というもの自体にどこか疑念をもっているような気さえします。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「学問」など道楽者のやること、と思われていたのはそう遠い昔のことではありませんね。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;今でも、一流大学を出た若者が「頭ばっかりよくたってねえ」と言われるのを聞きます。「学校で学んだことなんて実社会じゃ役にたたねえんだよ」と罵倒される場面に出会うこともあります。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「いやそんなことないでしょ」と横から反論する私自身が、別の場所で同じようなことを言っているような気もします。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;それはやっかみ半分かもしれませんが、高度な勉強をしたことと現場で使えることとはまったく別物だという、いくばくかの「知恵」もそこには含まれているのではないでしょうか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;大学でMBAを取得したての若者がいきなり高給を手にする社会と、熟練性（＝どれだけこなれているか）を重視する私たちの社会との、根本的な文化の違いがそこにあるような気がします。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;文化が違えば「知」のかたちも違う&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;さて、そうした現実に出会うたび、「それがこの国のレベルだよ」と、自分の国を二等国扱いしてきた歴史がありました。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;しかし文化が違えば「知」のかたちも違うのが当然です。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;もとより私たちが向かい合っているのは、西欧起源の、しかも近代に端を発するかなり限定された知の体系なのです。それを絶対視することもないはずです。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;もちろん、明治以来その西欧近代の力によって日本がここまで来たのは事実だし、その間に西欧近代が私たちの文化のかけがえのない一部になったことも確かです。右翼や左翼が企図するようにそれを「リセット」することはできないし、その必要もないと思います。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;それでは私たちがとるべき道はどこにあるのでしょうか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;さいわい、参照すべきヒントはいくつもあります。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;table  border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E3%83%88%E3%83%A8%E3%82%BF%E3%81%AE%E7%8F%BE%E5%A0%B4-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E6%AD%A3%E7%9F%A5/dp/4828412301%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4828412301" target="_blank"&gt;&lt;img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41GTPS817ML._SL160_.jpg" border="0" alt="考えるトヨタの現場" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;font size="-1"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E3%83%88%E3%83%A8%E3%82%BF%E3%81%AE%E7%8F%BE%E5%A0%B4-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E6%AD%A3%E7%9F%A5/dp/4828412301%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4828412301" target="_blank"&gt;考えるトヨタの現場&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" style="border: none;" alt="" /&gt;&lt;br /&gt;
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&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;最近「考えるトヨタの現場」（田中正知著、 ビジネス社）という本を読みました。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;近年産業界でひっぱりだこのトヨタ生産方式について語った本です（もし、トヨタ生産方式を単なる効率化の手段だとか工場の中の話だとか思っている方がいらっしゃったら、だまされたと思って一度お読みになることをおすすめします。教育論にも関わってくるとても刺激的な本です）。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;この本を読んで感じるのは、日本人特有の思考がいかに普遍的なものとなり得るか、それがいかに世界を驚嘆させ得るか、といことです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;と同時に、それが文化性に基づくがゆえに、いかに普及しにくいものであるか、ということにも驚かされます。トヨタ生産方式ほど今もてはやされる思想はなく、それでいてトヨタ生産方式ほど真の意味での普及が進まない想もありません。だからこそ競争力が保たれているのだともいえます。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;最近「ちいさな世界企業」の話がマスコミにもよく取り上げられますよね。日本にたくさんある、知られざるナンバーワン町工場の話です。あれなども同じ方向を指し示しているように思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;文化に根ざすものだから強いのだし、逆に世界に通用する普遍性をもつのです。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;学級の歴史&lt;/h3&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;table  border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%EF%BC%9C%E5%AD%A6%E7%B4%9A%EF%BC%9E%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E9%81%B8%E6%9B%B8%E3%83%A1%E3%83%81%E3%82%A8-%E6%9F%B3-%E6%B2%BB%E7%94%B7/dp/4062583259%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4062583259" target="_blank"&gt;&lt;img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/416B4VKENAL._SL160_.jpg" border="0" alt="＜学級＞の歴史学 (講談社選書メチエ)" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;font size="-1"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%EF%BC%9C%E5%AD%A6%E7%B4%9A%EF%BC%9E%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E9%81%B8%E6%9B%B8%E3%83%A1%E3%83%81%E3%82%A8-%E6%9F%B3-%E6%B2%BB%E7%94%B7/dp/4062583259%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4062583259" target="_blank"&gt;＜学級＞の歴史学 (講談社選書メチエ)&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" style="border: none;" alt="" /&gt;&lt;br /&gt;
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&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;また、「学級の歴史学」（柳治男、講談社選書メチエ）もとても刺激的な本でした。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そこには日本の「学級」がいかに「作られて」きたものであるかが描かれていました。それを否定的に受け取ることもできますが、著者も認めているのは、「学級」が日本の教師たちの工夫によって作りあげられてきたということです。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;校則や生徒の生活面にまで踏み込んだ指導、「学級文化の祭典」としての運動会…。それらは他の国の教育風景とは異なるかもしれませんが、日本に学校教育を普及させるうえで、日本の教師たちが産み出してきたまさに文化なのだと思います。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;その頂点にあるのが、先だって亡くなった大村はまさんのような方ではないでしょうか。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;何を教えるかということも文化なら、どう教えるかということもまた文化なのでしょう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;文化は、文化性の背景をもつ学校や教師によって伝えられる。その方法論もまた、文化性の背景の中で育まれ、伝えられていく。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そのことをもっと大事にするなら、教育現場ももっと活き活きとしていくのではないでしょうか。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;教育で文化を変えるという発想もありえます。日本の近代化はたしかにそういうかたちで進められてきました。しかし、その過程でさえも日本人は日本化してしまったというのが、「学級の歴史学」の語るところでした。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そしてそれでいいのではないかと私は思うのです。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;「西欧近代」にも日本人なりの受容があっていい。数学よりも実学が求められるなら、それでもいいんじゃないかと思うのです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そういうことを、もう一度振り返って（過去をではなく、現在を）、考えてみてもいいんじゃないか、必要なのは教育改革ではなく、そういう行動なのではないかと思うのです。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;ローレライとMONSTER&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;先頃映画化された「終戦のローレライ」「亡国のイージス」の原作（どちらも福井春敏作）を読みました。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;福井晴敏の作品にはさまざまな小道具とそれにまつわる記憶が描かれます。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;父に肩車されながら聞いた下駄の音であったり、祖父に手ほどきされた絵画とそれを象徴する絵筆であったり、また出征前夜に母が作ってくれたあんこ鍋であったり…。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;table  border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E7%B5%82%E6%88%A6%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%A9%E3%82%A4%EF%BC%881%EF%BC%89-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%A6%8F%E4%BA%95-%E6%99%B4%E6%95%8F/dp/4062749661%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4062749661" target="_blank"&gt;&lt;img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51843FAFJ9L._SL160_.jpg" border="0" alt="終戦のローレライ（1） (講談社文庫)" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;font size="-1"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E7%B5%82%E6%88%A6%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%A9%E3%82%A4%EF%BC%881%EF%BC%89-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%A6%8F%E4%BA%95-%E6%99%B4%E6%95%8F/dp/4062749661%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4062749661" target="_blank"&gt;終戦のローレライ（1） (講談社文庫)&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" style="border: none;" alt="" /&gt;&lt;br /&gt;
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&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;それらのすべてが語ろうとしているのは、人と人とのつながりではないでしょうか。すべての人が、生きているかぎり何らかのかたちで人と関わり、何かを残していくのではないでしょうか。福井晴敏はそこにこそ生の意味を求めようとしているように思えます。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;それらの記憶が主人公たちの脳裏に甦るとき、彼らをつき動かすのは「つながっている」という思いです。自分を世界につなぎとめているものの存在を感じとったとき、彼らは革命の言葉が描き出す世界の嘘に気づくのです。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;文化とは、そんなささやかなモノやコトに媒介されて伝えられ、生き残っていくのだと思いました。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;幸福な家庭だけではありません。私生児の主人公にも、顔も知らない父が置いていった異国のレコードがありました。何度も聞いた異国の調べがありました。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;どんな家庭にも文化がありうるし、どんな人も文化の運び手となりうるのだと思います。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;また、しばらく前に話題になった「MONSTER」というコミック（浦沢直樹作、小学館、全18巻）を最近になって読みました。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ショッキングなストーリー展開を前景に置きつつも、味わい深いエピソードを背景の随所にちりばめた印象深い作品なのですが、終末近くにこんなサイドストーリーがありました。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;table  border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/Monster-1-%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E6%B5%A6%E6%B2%A2-%E7%9B%B4%E6%A8%B9/dp/4091836518%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4091836518" target="_blank"&gt;&lt;img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51PYAWHP1QL._SL160_.jpg" border="0" alt="Monster (1) (ビッグコミックス)" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;font size="-1"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/Monster-1-%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E6%B5%A6%E6%B2%A2-%E7%9B%B4%E6%A8%B9/dp/4091836518%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4091836518" target="_blank"&gt;Monster (1) (ビッグコミックス)&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" style="border: none;" alt="" /&gt;&lt;br /&gt;
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&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;息子と二人暮らしの父親は、幼い（小学生くらいでしょうか）息子が稼いできた金を巻き上げては毎日飲んだくれているひどい奴です。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;物語全体のクライマックスとなるある晩、酒を求めてふらふら通りに出てきた父親は、息子がある登場人物から銃を突きつけられている場面に遭遇します。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;「俺の息子に何しやがるんだ！」&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;父親は拾った銃をぶっぱなし、父親の登場を予期していなかった犯人は撃ち倒され、息子は難を逃れるのでした。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;終幕後、父親は警察に引き立てられていくのですが、息子は「お父さんは悪くない！」と泣きながら追いかけていくのでした。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;その後その息子の頭の中でどんな世界像、父親観が形成されていったのだろうと考えるとき、文化とは「人」という字とイコールであるのかもしれないと思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;人を通じて何かが伝えられていく、そこに生起するさまざまな思いが雑多なベクトルとなって混じり合いながら、文化を形成していくのではないでしょうか。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;文化を支えるもの&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;教育の神髄もそこなのだと思います。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;いい先生、いい授業ならなおのこと、仮にそうでなくても、子どもは必ずそこから何かを受け取っていきます。それがポジティブな気持ちでもネガティブな気持ちでも、その子どものオリジナルな世界観の一部になっていきます。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そのオリジナルさこそがかけがえのないものなのではないかと思うのです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「個性尊重」と言いますが、本当のオリジナルさとは「個」に宿るのではなく、人と人とのつながり、その偶然性の積み重ねにこそ宿るのではないでしょうか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そこを見落としているかぎり、昨今の教育論はどこかで袋小路にはいってしまうのではないかと思います。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;「教育に失敗があってはならない」という言い方にはなじめないのは、それが完全性を志向しているからではなく、それが文化を視野に入れていないからだと先に書きましたが、その理由はもうひとつあるのかもしれません。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;つまり、そこでは教育というものが他者とのつながりを持たず、「個」で完結することを目指しているように思えるということです。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;私は人と人との関係性の雑多さが文化を支えるのだと思うし、そのバイタリティに期待する強さを持つこと、そこにこそ個性ある文化が生まれてくるのではないかと思います。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/4158985782102576103" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/4158985782102576103" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://education.nakagawa.click/2005/11/blog-post.html" rel="alternate" title="「教育=文化」論" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8886309710332504172.post-4056195673083058340</id><published>2005-09-30T20:39:00.001+09:00</published><updated>2015-02-05T23:56:28.159+09:00</updated><title type="text">時代の15年周期仮説</title><content type="html">&lt;h3&gt;1&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;先日、博報堂生活総研が「時代の15年周期仮説」というおもしろ い考え方を提唱していました。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;明治以降の日本を15年ごとに区切って見ていくといろんなことが見えてくるというもので、15年をさらに4つまとめた60年をひとつの時代と考えるというものです。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;それによると明治維新から軍国主義の到来までが60年。太平洋戦争をはさんでバブル期あたりまでが60年。現在の私たちはバブル前後にはじまる第3の60年期の入り口に立っている、ということになります。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それぞれの60年期の中で細かく区切られた15年には意味があって、最初の15年はパラダイム変革期、次の15年は離陸期、次は量的拡大期、最後が質的深化期で、これでひとまわりした時代は次のパラダイムへと移っていきます。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;それぞれの意味づけは次のとおりです。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;「パラダイム変革期」は、その後の時代の価値観、考え方、進め方の提案がなされ、試行錯誤、取捨選択を経て次の時代の方向が示される。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;「離陸期」は、新しいパラダイムの決定を見て、その方向に徐々に社会を進ませる。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;「量的拡大期」は、社会の方向の行方が定まったことを受けて生活の量的拡大、満足を目指す。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;「質的深化期」は、量的な満足を得た後、個々の納得できる方向を模索し、いくつかの方向に分かれゆく。&lt;/li&gt;
&lt;/ol&gt;
&lt;/blockquote&gt;

&lt;h3&gt;2&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;これを具体的に見ていくと...&lt;/p&gt;&lt;p&gt;たとえば、明治維新（1968）からのパラダイム変革期は、廃藩置県（1871）や義務教育の開始（1872）、自由民権運動といった新しい流れを生み出していくとともに、西南戦争（1877）を最後として残存する武士勢力が一掃された15年でした。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;次の離陸期は憲法発布（1889）、議会の召集（1890）から日清戦争（1894）の勝利をもって日本が世界の帝国主義の仲間入りをした時代。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;つづいて日露戦争（1904）をはさんで第一次大戦頃（1914）までの量的拡大期は日本の存在感が世界の中で拡大していく時代です。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;最後に、大正デモクラシーにはじまり満州事変（1931）に終わる質的深化期。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;次の60年は、満州事変にはじまり終戦（1945）とともに終わる軍国主義の15年（パラダイム変革期）、戦後の闇市から朝鮮特需を経て、高度成長にいたる離陸期、東京オリンピック（1964）、大阪万博（1970）を経て石油ショック（1973）で終わる量的拡大期（高度成長期）、そして祝祭の80年代を経てバブル崩壊（1991）までの質的深化期というわけです。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;3&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;もとより目盛りのない時の流れにあとから定規を当ててみているわけですから、あまり実体論として捉えてしまうのは考えものですが、それでもこの仮説はいくつかの面白い視点を私たちに与えてくれているように思えます。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;たとえば、この仮説に従えば、現在の私たちはバブル崩壊とともにはじまった新しい60年期の最初の15年（パラダイム変革期）、それもそろそろ終わろうとしている15年に居合わせていることになります。「失われた10年」の後いくつかの改革が進行中ですが、はたしてそれは次に来る「離陸期」にふさわしい準備となっているかどうか、そのことがこれから問われてくるのでしょう。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;また、15年ごとのユニットに区切ることで、その時代の特徴や歴史の中での意味を、それが何年頃に起こったことかという年代感覚とともに頭に入れられるのは、歴史を学ぶうえでとても有益なことではないでしょうか。現代史は、中学でも高校でも早足で通り過ぎてしまいますから、なおさらですよね。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;しかし、何より私にとって面白かったのは、第二の60年期が軍国主義とともにはじまっている、ということでした（目盛りの置き方の問題ですけどね）。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ふつう私たちの頭の中で、あの時代は明治維新とひとまとめにして「ひとつ前の時代」として歴史の向こう側に押しやられているように思います。ところが、あの時代にはじまったパラダイムの中についこのあいだまで私たちはいたのだとしたら…。ちょっと歴史観が変わってきますよね。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そうしてみると、今その次のパラダイムに入った私たちはようやくあの時代の影から脱したということになるでしょうか。昨今、憲法改正が話題に上るようになったのも（いいか悪いか別にして）必然的な流れなのかもしれません。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;ともあれ、いろんな意味で考える材料を提供してくれる仮説ではないかと思います。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/4056195673083058340" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/4056195673083058340" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://education.nakagawa.click/2005/09/15.html" rel="alternate" title="時代の15年周期仮説" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8886309710332504172.post-2052006227642197941</id><published>2005-04-16T00:00:00.000+09:00</published><updated>2015-02-06T00:00:59.669+09:00</updated><title type="text">不登校、選んだわけじゃないんだぜ！</title><content type="html">&lt;blockquote&gt;&lt;table  border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%8D%E7%99%BB%E6%A0%A1%E3%80%81%E9%81%B8%E3%82%93%E3%81%A0%E3%82%8F%E3%81%91%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84%E3%82%93%E3%81%A0%E3%81%9C-%E3%82%88%E3%82%8A%E3%81%BF%E3%81%A1%E3%83%91%E3%83%B3-%E3%82%BB-%E8%B2%B4%E6%88%B8-%E7%90%86%E6%81%B5/dp/4652078072%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4652078072" target="_blank"&gt;&lt;img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/61AQJY0VG2L._SL160_.jpg" border="0" alt="不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;font size="-1"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%8D%E7%99%BB%E6%A0%A1%E3%80%81%E9%81%B8%E3%82%93%E3%81%A0%E3%82%8F%E3%81%91%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84%E3%82%93%E3%81%A0%E3%81%9C-%E3%82%88%E3%82%8A%E3%81%BF%E3%81%A1%E3%83%91%E3%83%B3-%E3%82%BB-%E8%B2%B4%E6%88%B8-%E7%90%86%E6%81%B5/dp/4652078072%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4652078072" target="_blank"&gt;不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" style="border: none;" alt="" /&gt;&lt;br /&gt;
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&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;h3&gt;1&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;これは、小学校をずっと不登校で過ごし、中学から学校に行くようになり現在は大学院で社会学を研究している女性と、かつて「明るい不登校」を満喫しながら、現在はうつ病治療中の男性の共著による本です。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;なかなかー筋縄ではいかない本なのですが、読み終えてひとつ私の中で明らかになったのは、&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「現実をいかに引き受けながら生きるか」&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それがテーマなんだろうなということでした。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;この本を書店で手にとるきっかけとなったのは、ある教育関係のフォーラムでした。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それは&lt;em&gt;「明るい不登校」&lt;/em&gt;をめぐる論争でした。「明るい不登校」とは、ネガティブなイメージの強い「不登校」をポジティブなものとして捉え直し、不登校に悩む子どもやその親を呪縛から解き放とう、という考え方です。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;学校は行かなくてはならない場所ではないんだよ、学校がいやなら行かなくてもいいんだよというのが、そのメッセージなのでした。そうした考えの下に、不登校児のためのフリースクールがいま全国に誕生しつつあり、それと平行するように、子どもを学校にやらず家で教育しようという「ホームエデュケーション」も市民権を得つつあります。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しかし、私を含め幾人かの参加者はその論旨に違和感を拭えずにいました。それは単に「不登校の肯定」であることを大きく超えて、「学校の否定」というイデオロギーの色彩を帯びていたからです。つまり、学校こそが不登校を生み出しているというわけです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それが「不登校」という個別の現象から語り起こされているところに違和感の原因がありました。その議論は、不登校ではない子どもたちのことを一切捨象した議論だと思えたのです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;どちらの陣営にも不登校児をもつ保護者が加わっていたのですが、私自身は不登校児と接点を持ったことがないので、何か考えをすすめるための手がかりはないだろうかと探していたところに、この本と出会ったのでした。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;2&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;まず、「不登校という選択だってあっていいじゃないか」という言い方は、実際に不登校や引きこもりの子どもを持った親のギリギリの言葉として、理解できます（安易に理解できる、なんて言うと叱られるかも知れませんが）。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;特に、「不登校は特定の性質をもった子どもだけの問題」と旧文部省が断定し、親の性格や育て方に問題があったと社会から糾弾された20年前や30年前には、親自身、そして子どもの人格を守るためには、「不登校」というアンチテーゼを立てる以外に選択の余地がなかったということは想像できます。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;しかし、これをイデオロギー化して、「学校なんて行かなくてもいいんだ」というー般論として語れるかというと、それは違うのではないかと思うのです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;何故なら、文科省が「不登校は誰にでも起こりうる」と再宣言し、フリースクールが全国に誕生しつつある今でも、不登校という選択はやはり実社会において不利だからです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;この本によれば、「明るい不登校」を経た人の中でも、その後の人生を何の問題もなく生きている人はむしろ少数だと言います。そこから&lt;em&gt;「不登校エリート」&lt;/em&gt;というもっと複雑な問題が出てきます。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;（著者の一人、常野雄次郎の言葉から）&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;
&lt;p&gt;僕はかつて、その「エリート」の一人だった。でも、今にして思えば、僕自身にとっても、この物語は抑圧的なものだった。というのは、学校に行かないことへの劣等感を克服した時点で、この物語はハッピーエンドで終わってしまうからだ。この物語を受け入れるかぎり、それ以降どんなにつらいことがあったとしても、それを言葉にすることができなくなってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;すなわち、「明るい不登校」を実践し、うまく実社会に復帰できた人はまだいい。そうでない人は「明るい不登校」が市民権を得れば得るほど逆にますますみじめになっていくということです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それは、「明るい不登校」の旗印が、あくまでも「不登校だって実社会で問題ない」だったからではないのでしょうか。それは本来、「実社会でうまく生きていけなくたっていいんだ」というギリギリの決断、覚悟であるべきだったのではないでしょうか。そうでないかぎり、問題があった人たち（たとえばフリースクールにさえ行けなかった人、実社会にうまく適応できなかった人）は、「明るい不登校」からも落ちこぼれた者として、ー層社会の暗部に落ちていってしまう他なくなるのではないでしょうか。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;「不登校という選択」は、やはりギリギリの覚悟を伴った選択だからこそ成立するのだと思います。つまりそれしか選択肢がないから成り立つのです。その淵に立たされた方々が、やむにやまれぬ気持ちで不登校を肯定するのはわかるし、そのことを否定する気持ちもその権利も私にはありませんが、イデオロギーとして「不登校」を持ち上げるのは、現実を直視するかぎり無責任という他ないのではないかと思います。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;不登校が子どものせいでもなく親の育て方のせいでもないように、それは社会のせいでも学校のせいでもないのだと思います。どこかに（たとえば学校に）原因を求め、それさえなくなれば問題は解決すると考えるかぎり、幸福はないのだと思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;「不登校、選んだわけじゃないんだぜ！」の著者たちは、そうした考え方に疑問をぶつけ、現実（の自分と現実の社会）を引き受けて生きる道を模索しようとしている点で、とても好感が持てました。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;3&lt;/h3&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;table  border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E8%80%83%E3%81%88%E3%81%82%E3%81%86%E6%8A%80%E8%A1%93-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%8B%85%E8%B0%B7-%E5%89%9B%E5%BD%A6/dp/448006222X%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D448006222X" target="_blank"&gt;&lt;img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41Y7RHHKW0L._SL160_.jpg" border="0" alt="考えあう技術 (ちくま新書)" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;font size="-1"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E8%80%83%E3%81%88%E3%81%82%E3%81%86%E6%8A%80%E8%A1%93-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%8B%85%E8%B0%B7-%E5%89%9B%E5%BD%A6/dp/448006222X%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D448006222X" target="_blank"&gt;考えあう技術 (ちくま新書)&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" style="border: none;" alt="" /&gt;&lt;br /&gt;
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&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;ところで、学校の存在意義が揺らいでいること自体は確かだろうと思います。だからこそ、そこかしこで学校をめぐる議論が行われているのでしょう。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;「考えあう技術ー教育と社会を哲学する」（刈谷剛彦・西研著、ちくま新書）の中で、著者たち（教育学者と哲学者）はそうした現実からスタ一トして、学校の可能性をどこに求めるかを論じています。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;彼らによると、出発点は&lt;em&gt;「職業選択の自由」&lt;/em&gt;にあります。職業選択の自由は自由主義社会を支える基本的な要素のひとつですが、普通に考えるほどこれは簡単なことではありません。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;職業選択の自由を実現するためには、国民のー人一人がどんな職業にも適応できる最低限の基礎的能力を有している必要があります。そしてそのための教育は基本的に国家が提供せざるを得ません。農家の親は農業の技術を教えることはできるし、職人の親はその職の技術を教えることはできるでしょう。しかし、すべての分野における基礎的な教育を自分で施せる親はそうはいないはずだからです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;言い換えれば、子どもに特定の教育しか与えないということは、子どもの職業選択の自由を奪っているということになります。「子どもに選ばせる」と言えば聞こえはいいですが、子どもの志望など成長過程でどんどん変わっていくのが普通です。「あのときどうして数学の勉強をしなさいと言ってくれなかっなのよ」と子どもに言われて、「あのとき自分で選んだんじゃない」と言い返したところで、社会的にはそんな言い訳は通用しません。子どもの判断力は未熟であって親がそれを補ってやらなければならない」というのが社会の約束ごとなのですから。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そうした教育がきちんと提供できるなら、ホーム・エデュケ－ションやフリースクールを選ぶことも最終的には各家庭の自由かもしれません。選択肢があるということは悪いことではないかもしれません。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しかし、上に述べたような理由において学校の役割はまだまだ終わっていないし、ホーム・エデュケ－ションやフリースクールにも問題がない訳ではありません。さきほどの「不登校エリート」の問題もそうですし、またホーム・エデュケーションは確かに米国では市民権を得ているようですが（米国では1998年-1999年度で120万人～160万人。学齢人口 のおおよそ2％～3％に当たります）、一方で児童虐待やネグレクトの温床となっていて、社会問題化しているのもまた事実のようです。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;それらを冷静に見つめながら、一般論だけではなく個々のケース に応じて考えていくことが必要だろうと思います。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;4&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;「不登校、選んだわけじゃないんだぜ！」は、不登校や引きこもりをめぐる本であるとともに、ひとつの哲学書であると言って過言ではないかもしれません。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;著者たちは、特殊な自分の経験を語っているようでいて、そこで語られている内容はおどろくほど普遍的なものであるように思えます。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;人は誰も&lt;em&gt;「自分」という牢獄&lt;/em&gt;を生きているのでしょう。牢獄のその壁はふだんは目に見えないかもしれませんが、逆境にあるときや思い悩んでいるときには、目に見える壁となって私たちの前に高くそびえたちます。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;私がそのことを強く意識したのは大学の時でした。逆境にあったのではありません。ただとにかく先が見えず思い悩んでいた時期でした。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;就職し、自分の足で歩きだし、無我夢中で生きているうち、その壁はいつしか見えなくなりましたが、しかしその壁は今も/いつもそこにあるのだと思います。たとえ壁は目には見えなくても、誰もが「自分」という限界を生きていることには変わりないのです。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;つまり、「自分」という生をどう引き受けるか、それが問題なのではないでしょうか。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;
&lt;p&gt;（著者の一人、貴戸理恵の言葉から）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「病気だ」と言えば、「かわいそう。しかたないね」と責任を免除される代わりに、それが「望ましくない状態」であることを認めることになる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「選択」とすれば、「すばらしい状態」と言うことはできるけれど、ついてくる不利な状況まで「それを選んだ自分の責任」として個人的に抱え込まざるをえなくなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「登校拒否は病気じゃない。わたしたちは異常じゃない」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;というフリースクールや親たちの論理は、後者をとるという選択だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「登校拒否は病気だ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と常野くんは言う。さらには、「そのようなものとしての登校拒否を肯定するのだ」と。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これは、「病気」か「選択の結果」かという二者択一の強迫を、かき乱して、無効にしてしまう不思議なスタンスだ。&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;最初、不登校という経験を学校のせいにし、親のせいにし、社会のせいにした著者たちは、苦しみの末にそれを自分の一部として引き受けることを決意します。むしろ不登校という経験を抜いてしまったらそれは自分ではないと彼女たちは考えるようになります。捜し求めていた「本当の自分」は、青い鳥のように最初からここにいたというわけです。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そういう考え方は社会を改革しようという意志の否定だとお考えでしょうか。それは違うと思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;現在の自分（の境遇）を否定するために社会の方を変えようという考え方に対して、現在の自分（の境遇）を肯定し、引き受けたうえで、その自分ができることをやっていこうとする姿勢が存在すると思います。その両者の間には雲泥の差があるでしょう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;少なくとも私は後者でありたいし、後者を応援したいと思います。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/2052006227642197941" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/2052006227642197941" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://education.nakagawa.click/2005/04/blog-post.html" rel="alternate" title="不登校、選んだわけじゃないんだぜ！" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8886309710332504172.post-2580018292477086566</id><published>2004-10-16T23:58:00.002+09:00</published><updated>2015-02-06T00:06:19.954+09:00</updated><title type="text">教育改革の幻想</title><content type="html">&lt;blockquote&gt;&lt;table border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tbody&gt;
&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%95%99%E8%82%B2%E6%94%B9%E9%9D%A9%E3%81%AE%E5%B9%BB%E6%83%B3-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%8B%85%E8%B0%B7-%E5%89%9B%E5%BD%A6/dp/4480059296%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4480059296" target="_blank"&gt;&lt;img alt="教育改革の幻想 (ちくま新書)" border="0" src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41PWKG1XSCL._SL160_.jpg" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;span&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%95%99%E8%82%B2%E6%94%B9%E9%9D%A9%E3%81%AE%E5%B9%BB%E6%83%B3-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%8B%85%E8%B0%B7-%E5%89%9B%E5%BD%A6/dp/4480059296%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4480059296" target="_blank"&gt;教育改革の幻想 (ちくま新書)&lt;/a&gt;&lt;img alt="" height="1" src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;amp;l=ur2&amp;amp;o=9" style="border: none;" width="1" /&gt;&lt;br /&gt;
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&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p class="p"&gt;教育については、入門書など紹介するまでもなく、子どもを持つ親なら誰もがすでに一家言持っているのではないでしょうか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;教育は誰もが自分なりに等身大で語ることのできるテーマです。しかし、その「等身大」ということに必要以上に価値が置かれるところにこそ、不毛な教育論争の原因があるのではないか。教育社会学者で東大教授の刈谷剛彦氏はこう述べています。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;刈谷氏にはそのものずばりの「なぜ教育論争は不毛なのか」（中公新書ラクレ）という著書もありますが、こちらはあまり読みやすい本ではないので（タイトルだけお借りすることにして）ここでおすすめはしません。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;table border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tbody&gt;
&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%81%AA%E3%81%9C%E6%95%99%E8%82%B2%E8%AB%96%E4%BA%89%E3%81%AF%E4%B8%8D%E6%AF%9B%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%8B%E2%80%95%E5%AD%A6%E5%8A%9B%E8%AB%96%E4%BA%89%E3%82%92%E8%B6%85%E3%81%88%E3%81%A6-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%AC88-%E8%8B%85%E8%B0%B7-%E5%89%9B%E5%BD%A6/dp/4121500881%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4121500881" target="_blank"&gt;&lt;img alt="なぜ教育論争は不毛なのか―学力論争を超えて (中公新書ラクレ88)" border="0" src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41H4JS8M10L._SL160_.jpg" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;span&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%81%AA%E3%81%9C%E6%95%99%E8%82%B2%E8%AB%96%E4%BA%89%E3%81%AF%E4%B8%8D%E6%AF%9B%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%8B%E2%80%95%E5%AD%A6%E5%8A%9B%E8%AB%96%E4%BA%89%E3%82%92%E8%B6%85%E3%81%88%E3%81%A6-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%AC88-%E8%8B%85%E8%B0%B7-%E5%89%9B%E5%BD%A6/dp/4121500881%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4121500881" target="_blank"&gt;なぜ教育論争は不毛なのか―学力論争を超えて (中公新書ラクレ88)&lt;/a&gt;&lt;img alt="" height="1" src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;amp;l=ur2&amp;amp;o=9" style="border: none;" width="1" /&gt;&lt;br /&gt;
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&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;h3&gt;子どもは主役か？&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;&lt;p&gt;なぜ「等身大」であることに価値を置く教育論は不毛になりやすいのか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;まず&lt;em&gt;「子どもの視点」&lt;/em&gt;という言説があります。私はインターネット上のとある教育関連のBBSにしょっちゅう出没しているのですが、そこでよく見られる主張が「子どもの視点で考えよう」というものです。「大人の視点でばかり考えず、主役は子どもなのだから子どもの視点を大事にしよう」というわけです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それはもっともな主張なのですが、ある一点において問題をはらんでいます。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;すこし考えて見ましょう。たとえば、子どもは学校の主役なんでしょうか？&lt;/p&gt;&lt;p&gt;学校はたしかに「子どもが学ぶ場」です。しかしそれを、子どもが「主体的に学び取る」という風に言い換えることができるでしょうか。学校にはただ学びの材料が用意されていて、子どもたちはそれを主体的に選択して組み立てていくのでしょうか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そういう側面もあります。しかしそれは限られた一部でしかありません。実際には学校において大きな役割をはたしているのは教師です。教師が、子ども達の反応に合わせて臨機応変にやり方を変えながら教え導いていく。そのことによって子供達に「学びとらせて」いくのが、学校教育のスキームであるはずです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そうしてみれば、主役はむしろ教師の方であるという言い方も可能です。もちろん教師の視点がすべてになってしまってはまずいし、だからこそ先のような主張があるのですが、さしあたってここで問題にしたいのは、「子供が主役」という観点からは「教師が教え導く」という学校教育の構造が見えなくなってしまうということです。&lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;子ども中心主義教育&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;&lt;p&gt;教育論争を不毛にするもうひとつの要因は、&lt;em&gt;「理想の教育」&lt;/em&gt;という言説です。この「理想の教育」と、先ほどの「子供が主役」という言説が出会うところに、&lt;em&gt;「子ども中心主義教育」&lt;/em&gt;という思想が生まれてきます。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;すなわち「子どもが生まれもった可能性を大事にすべきであるから、知識を一方的に授ける教育は望ましくない。個々の子どもの好奇心を原点に、子どもたち自身が自分で学んでいくような授業をすべきである」という主張です。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それはたいへんもっともな主張なのですが、そうであるだけになおさらそこには大きな罠が潜んでいるとも言えます。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;著者によると、そうした「子ども中心主義教育」はアメリカでも広範な支持を集めているらしいのですが、成功例はきわめて限られているそうです。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;
&lt;p&gt;そこで学ぶ子どもたちは、全員が白人で、裕福な専門職の親を持つ家庭の子どもたちであった。（中略）教師達も、通常の公立学校とは異なり、選りすぐりの教師たちが集められた。&lt;cite&gt;（「教育改革の幻想」より）&lt;/cite&gt;&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;80年代末にはカリフォリニアで、制度としての子ども中心主義教育が導入された（つまり州全域ですべての学校で行われた）ようですが、全米規模の学力評価で下から5番目という惨憺たる結果に見 舞われ、方向転換を余儀なくされたようです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;その理由ははっきりしています。 子ども中心主義教育においては、教師が「教える」のではなく「ともに学ぶ」こと、「支援する」ことがよしとされます（いちばん大事なのは子どもたちの興味であり、選ぶのは子どもたちだというのがポリシーですから）。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;しかし問題は、そうした姿勢を貫きながらなお、巧みに子どもたちを導き、才能を開花させてやることのできる教師はそんなにいないことです。これは一種の名人芸であり、極めて高度なスキルであって、一般化することがむずかしいのだと思われます。 そしてまた子どの方も、好奇心からスタートして必要な知識や思考を修得していける子どもは限られているのです。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;実際、日本で行われた子ども中心主義のある公開授業（理科：テーマは溶解）で は、こんな光景が見られたそうです（同書より。原文は坂元忠芳氏「『新しい学力観』の読み方」旬報社）。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;
&lt;p&gt;食塩を金槌でこまかく砕いて溶かす子、ハンカチの上に食塩を 一生懸命にこすりつけて粒をこまかくしている子、ビーカーに水を入れてガラス棒でかき回している子、水の中に食塩を入れて、ただ 何もしないで眺めている子、（中略）子どもたちの思いつくままの 活動が展開されていたといいます。活動すること自体が目的になりますから、これでいいことになります。こういう学習をいくらくりかえしても、溶けるとはどういうことなのかという基礎・基本を、すべての子どもたちに獲得させることはできません。&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;これこそ子ども中心主義教育の失敗例です。そしてそのしわ寄せは明らかに「できない子ども」に集まります。「できる子」は自分でどんどん学んでいきますが、「できない子ども」は本来適切に導いてやるべきなのに、子ども中心主義教育では教師は「ともに学」び、「支援」することしか許されていないために、できない子どもは必然的に現在の場所にとどまらざるを得ないからです。 &lt;/p&gt;

&lt;h3&gt;「制度」への視点&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;「等身大の教育論」は、教師や制度に引き寄せられがちな教育論を子どもの方に引っ張る意味ではやはり大事です。しかし、そこに必要以上に価値が置かれ、逆に子どもの視点がすべてのようになってしまうと、先のようなことが起こるのだと思います。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;また、理想がなくては進歩はありませんし、いろいろな理想を語るのはいいことだと思います。しかしそれを実現するためには、学校における「学び」はどんな構造によって成り立っているのか、というリアルな認識から議論をはじめるべきなのです。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;すでに見たように、その構造を支えているもっとも重要なファクターは教師です。公立の小中学校だけでも65万人の教師が働いていると言います。それだけいれば優秀な教師もいれば、ダメな教師もいるでしょう。おそらく有能な教師はそのうちせいぜい1割程度でしょう。大半は、こう言っては失礼ですがふつうの教師だと思います。どこの現場でも能力の比率はそんなものですから。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;優秀な教師は理想を具現化する力量を持っているかもしれません。しかし大多数を占める「ふつうの教師」にそれを無条件に期待するのは楽天的に過ぎるでしょう。彼（女）らをどのように「教育」するのか。子ども中心主義教育はまったく新しい教え方を必要とします。それをどうやって普遍的な方法論にし、普及・定着させるのか。そのためのロードマップが必要です。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;また、ふつうの教師では期待どおりの成果が出ない場合、子どもたちへの影響がゼロならまだいいのですが、マイナスの影響が出ることはないのかどうか。「子ども中心主義教育」の場合は、日本でもアメリカでもあきらかにマイナスの影響がありました。こうした点に対する冷静な検証も必要となるでしょう。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;著者は別の著作「大衆教育社会のゆくえ―学歴主義と平等神話の戦後史」の終章で次のように語っています。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;table border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tbody&gt;
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&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;blockquote&gt;
&lt;p&gt;教育をめぐる議論には共通する特有のスタイルがある。あるべき理想の教育を想定し、そこから現状を批判する。批判そのものにはだれも異論はない。前提となるあるべき教育の理想には、だれも正面からは反対できない崇高なーー抽象的なーー価値が含まれている。一方、そうした教育の理想を掲げていれば、現実的な問題をどう解決するか、その過程でいかなる副作用が生じるかについての構造的把握を欠いたままでも、私たちは教育について多くを語ることができる。ここに教育をめぐる論議のもうひとつの特徴がある。&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;

&lt;h3&gt;教育には何ができないか&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;もう一冊教育をめぐる本を紹介しておきましょう。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;教育論議においてそのような「子どもが主役」という抽象的な理想論に立脚した言説が幅を利かせるのは何故なのでしょうか。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;table border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tbody&gt;
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&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;やはり教育社会学者で東大助教授の広田照幸氏は、「教育には何ができないか―教育神話の解体と再生の試み」（春秋社）という本を書いています。&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;そこで取りあげられるのは、たとえば「現代の母親はダメになったのか」という問題です。広田氏には「日本人のしつけは衰退したか―『教育する家族』のゆくえ 」（講談社新書）という著書が先にあるのですが、これらの著作を通じて彼は「最近の母親はしつけをしなくなった」というような言説がいかに無根拠なものか、またそうした言説はどこから生まれてきたのかを豊富なデータと資料を用いて明らかにしてくれます。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;そうした作業の中から浮かび上がってくるキーワードは、&lt;em&gt;「望ましい子供像をあれもこれもとりこんだ」&lt;/em&gt;&lt;em&gt;「完璧な子供＝パーフェクト・チャイルド」&lt;/em&gt;です。そして、そうした子どもをつくりあげるものとしての&lt;em&gt;「教育万能論」&lt;/em&gt;です。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;それは、本当の教育さえ実現できれば「パーフェクト・チャイルド」ができあがるはずだし、もしそうならないとしたらそれは教育が不完全なせいである、という考え方です。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;これこそまさに、先に述べた抽象的な理想をめぐる教育論議の背景にあるものではないでしょうか。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;非行は親のしつけや学校の道徳教育が十分でないから起こる。だから子どもが事件を起こせば、親の教育や学校の責任が問われる。一方、「こころの教育」を訴える声も、教育基本法に「愛国心」を盛り込もうという動きも、それらを強化すれば問題はきれいさっぱり消えてなくなると言っているかのようです。今はそうした教育が十分ではないのだと。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;こうした考え方が社会全般にゆきわたるとき、（現実には完璧な子どもを育てられない）（母）親を追いつめ、（もちろん完璧な子どもにはなれない）子どもを追いつめ、そして（実際には完璧な生徒に恵まれず、そのように生徒を導くこともできない）教師をも追いつめていく可能性があります。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;問題は、子どもは決してパーフェクト・チャイルドにはなりえないし、教育は決して万能ではないということをいかに理解するかではないでしょうか。&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;
&lt;p&gt;「教育に何ができるのかを考えるのではなく、何ができないのかを考えること。教育に何を期待すべきかではなく、何を期待してはいけないのかを論じること」。&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;これは、実は刈谷氏の「大衆教育社会のゆくえ」の結びの文章です。&lt;/p&gt;&lt;p&gt;刈谷氏の同僚である広田氏は、この言葉を受けて「教育には何ができないか」を書いたようです。&lt;/p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;両氏には他にも多数の著作がありますが、いずれも単なる印象論や観念論ではなく、データを積み上げ、検証を重ねていこうとする一貫した姿勢に好感が持てます。ぜひご一読をおすすめします。&lt;/p&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/2580018292477086566" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/2580018292477086566" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://education.nakagawa.click/2004/10/blog-post.html" rel="alternate" title="教育改革の幻想" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8886309710332504172.post-5821186696699528459</id><published>2004-06-13T20:40:00.004+09:00</published><updated>2015-02-06T00:07:57.092+09:00</updated><title type="text">学生の気づき</title><content type="html">&lt;h3&gt;1&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;昨日社内で開いたあるセミナーで講師が面白いことを言っていました。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;その講師はあちこちの大学でマーケティング関係のゼミを持っているらしいのですが、 学生の態度は偏差値に比例するのだそうです。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;「ふ～ん」と思いながら聞いていたのですが、偏差値の芳しくないある大学の授業では、&lt;/P&gt;&lt;p&gt;「どういうテーマをやってみたい？」と聞くと「別にぃ」という返事。「じゃ、どういう分野が好きかな」と聞くと「別にぃ」&lt;/P&gt;&lt;p&gt;ここは攻め方を変えてみようと、気を取り直して「キミ、さっきカップヌードル食ってたねえ。好きなの？」と聞くと、「別にぃ」&lt;/P&gt;&lt;p&gt;全然会話にならないそうです。断っておきますが、その講師は話も面白いし、巷では新進気鋭のコンサルタントとして有名なんですよ。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;ところが夏休みが終わって新学期がはじまると、その同じ学生が「先生、俺サービスについて研究したいんだけど」 &lt;br /&gt;
と言ってきたりするんだそうです。おまけにリーダーシップをとってクラスをまとめちゃったりするんだそうです。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;「ええっ。キミ何かあったの？」と聞くと、その大学は東京ディズニーランドが近いので夏休み中にバイトする学生が多いらしいのですが、その学生は「カリブの海賊」をやってたらしいんですね。最初は普通にやってたらしいのですが、子供が喜んでくれる。ちょっと気分がよくなってオーバーアクション気味にやると、子供たちがもっと喜んでくれる。思い切りオーバーアクションでやったら子供にも大人にも大ウケだったようなのです。喜んでくれることがうれしくていろいろ工夫するようになったのだそうです。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;その学生曰く「これまでの人生で誰かに喜んでもらうことなんてなかったから」。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;講師によると、外から与えられたものは決して身につかないそうです。その学生は、自分で気づいたことだから二度と忘れはしないだろうと。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;そうなるともう偏差値は関係ないんだ、というお話でした。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;何かと引き合いに出される東京ディズニーランドですが、教育についても学ぶことはありそうです。&lt;/P&gt;

&lt;h3&gt;2&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;この話をあるBBSで書いたら、「『気づき』って年を重ねることに増えてくるような気がします」という方が複数いました。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;そう言えば、糸井重里氏と池谷裕二氏（東京大学薬学部助手、大脳生理学）の対談書&lt;cite&gt;『海馬/脳は疲れない』（朝日出版社）&lt;/cite&gt;によると、&lt;q title="『海馬』"&gt;「脳は３０歳を超えたところで、飛躍的にネットワークを密にしていく」&lt;/q&gt;そうです。&lt;/P&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;table  border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%B5%B7%E9%A6%AC%E2%80%95%E8%84%B3%E3%81%AF%E7%96%B2%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B1%A0%E8%B0%B7-%E8%A3%95%E4%BA%8C/dp/4101183147%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4101183147" target="_blank"&gt;&lt;img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51TQWTMSJTL._SL160_.jpg" border="0" alt="海馬―脳は疲れない (新潮文庫)" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;font size="-1"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%B5%B7%E9%A6%AC%E2%80%95%E8%84%B3%E3%81%AF%E7%96%B2%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B1%A0%E8%B0%B7-%E8%A3%95%E4%BA%8C/dp/4101183147%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4101183147" target="_blank"&gt;海馬―脳は疲れない (新潮文庫)&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" style="border: none;" alt="" /&gt;&lt;br /&gt;
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&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;一般に脳の神経細胞は一日に10万個ずつ死滅していくと言われていますが、脳の中で記憶を司る中枢である「海馬」だけは唯一神経細胞が増えていくんだそうです。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;そして海馬の神経細胞が増えれば増えるほど、ネットワークをつくる密度も飛躍的に高まっていく。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;「気づき」というのは、ある意味である事柄と別の事柄をあたまの中で結びつけることですから、最近「気づき」が増えてきたという実感はあながち根拠のないことではないようです。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;これを言い換えると、&lt;em&gt;年を取るほど頭の働きは活性化する&lt;/em&gt;、ということですよね。希望が沸いてきます（笑）。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;あ、しかしそうすると子供に「気づき」を促すのはむずかしい、という話になっちゃうのか？&lt;/P&gt;

&lt;h3&gt;3&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;よく子供や若者に向かって「なんでそんなこともわからなかったんだ！」と怒る局面があります。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;当然予測できた結果を考慮せずに行動して失敗した場合によく使うことばです。些細な話でいえば、小さな子供がテーブルの下にもぐっていて、何を思ったか立ち上がったとたん頭をぶつけて泣き出した、なんてことがよくありますよね（え？ 大人でもある？ テーブルの下で何やってたんですか！？）。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;「こうなってこうなったら、必然的にこうなるだろう！」というのが大人の考え方なのですが、&lt;/P&gt;&lt;p&gt;先ほどの&lt;em&gt;「30歳を超えると海馬の働きは飛躍的に高まる」&lt;/em&gt;という話からすると、30前の若者や子供には、その必然性が頭の中で容易にはつながらないものなのかも知れません。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;「なんでそんなこともわからなかったんだ！」と私たちは思うわけですが、それはやっぱり「わからなかったんだよ」というのが真相なのかも。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;子供に記憶させるためにはくりかえしくりかえし教えるしかないんでしょうかね。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;そう考えると政治家に老人が多いのもわかるような気がします。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;こちらは聞いてもあまり元気が沸いてこない話ですが...。&lt;/P&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/5821186696699528459" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/5821186696699528459" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://education.nakagawa.click/2004/06/blog-post.html" rel="alternate" title="学生の気づき" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8886309710332504172.post-3367707807579706484</id><published>2004-06-07T20:46:00.004+09:00</published><updated>2011-03-06T20:50:43.037+09:00</updated><title type="text">家庭の教育力</title><content type="html">&lt;p&gt;&lt;em&gt;「家庭の教育力が低下している」&lt;/em&gt;というお話がありますが、どうも私はひっかかるところがあるのです。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;教育学者の広田照幸氏が「教育には何ができないか」（春秋社）の中で述べているのですが、「現代の母親はダメになった」とか「過去の子育てはよかった」とか「家庭の教育力の低下」といったイメージは、一見もっともらしいのですが、すべてどこか怪しい。&lt;/P&gt;&lt;br /&gt;
&lt;blockquote&gt;&lt;table  border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%95%99%E8%82%B2%E3%81%AB%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8C%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%8B%E2%80%95%E6%95%99%E8%82%B2%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%AE%E8%A7%A3%E4%BD%93%E3%81%A8%E5%86%8D%E7%94%9F%E3%81%AE%E8%A9%A6%E3%81%BF-%E5%BA%83%E7%94%B0-%E7%85%A7%E5%B9%B8/dp/4393332210%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4393332210" target="_blank"&gt;&lt;img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/519P5CV1G9L._SL160_.jpg" border="0" alt="教育には何ができないか―教育神話の解体と再生の試み" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;font size="-1"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%95%99%E8%82%B2%E3%81%AB%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8C%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%8B%E2%80%95%E6%95%99%E8%82%B2%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%AE%E8%A7%A3%E4%BD%93%E3%81%A8%E5%86%8D%E7%94%9F%E3%81%AE%E8%A9%A6%E3%81%BF-%E5%BA%83%E7%94%B0-%E7%85%A7%E5%B9%B8/dp/4393332210%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4393332210" target="_blank"&gt;教育には何ができないか―教育神話の解体と再生の試み&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" style="border: none;" alt="" /&gt;&lt;br /&gt;
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&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;というのは、明治から昭和初期の農村をイメージしてもらえばわかると思いますが、子育てや教育、しつけに時間を割いていた家庭など日本全体の中でほんのひとにぎりの上流家庭にすぎないのです。 大半の家庭では子供は&lt;em&gt;「ほったらかし」&lt;/em&gt;だった。 それどころか幼い弟や妹を背中に縛りつけて遊んでいる子供がザラだったようです。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;そもそも子育てなど、大の大人が時間を割いてやるものじゃない、という意識が強かったようですね。それくらい大人は食い扶持を得ることで精一杯だったのでしょう。そうした環境では「放っといても子供は大きくなれば自然に分別がついてくるものだ」という考え方が主流だった。「小さいときに厳しくしつけなければ」というのは、ひと握りの上流家庭の育て方だったようです。だいたい専業主婦なんて上流家庭でなければあり得なかったわけですからね。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;一億総中流化は、日本中のあらゆる層が上流家庭をめざすようになった、という現象でした。専業主婦が母親の鑑のようになり、お弁当が母性愛の象徴のようになり、子育てに時間をかけることがあたりまえのことになり...。しかし、生活水準はかなり均質化したのかもしれませんが、生活意識までほんとうに均質化し、上流階級化したのか、というところが問題です。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;実際は、あいかわらず大半が「庶民」のまま暮らしているんじゃないでしょうか？ それなのに、子どもの育て方だけは上流家庭のレベルを求められている、そこに問題があるんじゃないでしょうか？&lt;/P&gt;&lt;p&gt;すべての母親が愛情たっぷりのお弁当をつくり、すべての子供が昔のいいとこのおぼっちゃんのように礼儀正しく、きちんとしつけられているなんていうことがあり得るんでしょうか？あり得ない一種の理想像（？）を勝手に期待して、それができていない現状を見て「最近の母親は弁当をつくらない」とか「最近の子供は礼儀を知らない」と言ってるんじゃないかと思うのです。そしてそうした&lt;em&gt;「一億総道徳化」&lt;/em&gt;現象をマスコミあたりが増幅してばらまいているんじゃないかとね。&lt;/P&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/3367707807579706484" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/3367707807579706484" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://education.nakagawa.click/2004/06/blog-post_802.html" rel="alternate" title="家庭の教育力" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8886309710332504172.post-1395410764154952341</id><published>2004-06-07T20:44:00.001+09:00</published><updated>2011-03-06T20:45:41.162+09:00</updated><title type="text">親のエゴ</title><content type="html">&lt;P&gt;「担任の先生にテレビを見せないのは親のエゴ、クラスの友達と話が合いませんよ。テレビからも学ぶことがあるし、実際に年齢より幼いです」と言われた母親がいます。&lt;/P&gt;&lt;br /&gt;
&lt;P&gt;「親のエゴ」って、とても気になる言葉ですよね。&lt;br /&gt;
聞いてしまったら最後、勇気を振り絞って「エゴじゃないよね？ ちがうよね？」と自己確認せずにはいられなくなってしまう。&lt;br /&gt;
そんな抑圧性がこの言葉にはあります。&lt;/P&gt;&lt;br /&gt;
&lt;P&gt;しかし、「エゴ」かどうかが問題なんじゃない。「エゴかどうか」が問題にされること自体に問題があると言ってもいい。&lt;/P&gt;&lt;br /&gt;
&lt;P&gt;&lt;em&gt;「子供至上主義」&lt;/em&gt;がそこには見え隠れしていると思うのです。&lt;/P&gt;&lt;br /&gt;
&lt;P&gt;そもそもヨーロッパで「子供」という概念が生まれたのは16世紀だったと言います。じゃあそれまでは子供はいなかったのか？&lt;br /&gt;
それ以前のヨーロッパでは、子供とは単なる「小さな人間」に過ぎなかった。大人と同じように労働を分担していたようです。ついでに言うと「家庭」という概念も近代ヨーロッパ以降の概念です。大家族主義の時代に「家庭」なんてありえませんからね。&lt;/P&gt;&lt;br /&gt;
&lt;P&gt;何もその時代に戻ろうと言ってるわけではありませんし、戻れるわけもありませんが、&lt;br /&gt;
現代社会を一度相対化してみることはできると思います。&lt;br /&gt;
現代とは&lt;em&gt;「子供がとても大事にされる時代」&lt;/em&gt;だという風にね。&lt;/P&gt;&lt;br /&gt;
&lt;P&gt;「子供を大事にするのはいいことだ」と誰もが考えます。私とてこのことを否定する気はありません。しかし、だからこそ逆に恐いのです。&lt;br /&gt;
子供を大事にすることで子供をダメにすることもあります。むしろ苦労した方が人はよほど成長することがある。言い古された言葉ですが「可愛い子には足袋をはかせろ」、ちがった（笑）、「可愛い子には旅をさせろ」という言葉の意味をあらためて考えてみる必要があるかもしれません。&lt;/P&gt;&lt;br /&gt;
&lt;P&gt;人間はみな「エゴ」で生きています。&lt;br /&gt;
ことさらに「親のエゴ」が持ち出されるのは、「子供至上主義」が現代社会に芽生えつつあるからではないでしょうか。「親は子供のためにすべてを捧げるのよ」みたいな意識がどこかあるように思います。&lt;br /&gt;
親は、自分の人生を大事にしながら、自分が思うように子供を育てればいいのだと思います。&lt;br /&gt;
それがうまく行くこともあればいかないこともある。ただそれだけなのだと思います。それでも大抵の子供はきちんと自立していくのではないでしょうか。&lt;/P&gt;&lt;br /&gt;
&lt;P&gt;要するに「自信持って、気楽に子供を育てましょうよ」というのが私の言いたいことです。&lt;/P&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;P&gt;...ちなみに、この「エゴ」という言葉、おそらくフロイトあたりに起源を持っているんじゃないかと思いますが、だいたいフロイトの精神分析用語というのは安易に振り回すととても危険な場合があります。&lt;br /&gt;
「逃避」っていう言葉もありますね。&lt;br /&gt;
これも自分で「逃避た～いむ！」（笑）なんてやってる分にはいいですが、これほど人から言われて嫌な言葉もありません。「逃避」なんて人間の実に自然な心の動きのはずなのに、「逃避」と言われた瞬間にどこか罪悪感が伴ってしまう。&lt;/P&gt;&lt;br /&gt;
&lt;P&gt;こういう言葉を乱用することによって、私たち自身がこの社会をますます住みにくく、抑圧的にしているような気がしてなりません。&lt;/P&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/1395410764154952341" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/1395410764154952341" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://education.nakagawa.click/2004/06/blog-post_07.html" rel="alternate" title="親のエゴ" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-8886309710332504172.post-7840810121717821183</id><published>2004-06-06T20:54:00.003+09:00</published><updated>2015-02-06T00:11:01.873+09:00</updated><title type="text">情報教育について</title><content type="html">&lt;h3&gt;1&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;情報があふれ、情報が手軽に入手できる時代だからこそ私たちが考えなければならないのは、いかに&lt;em&gt;「自分の頭で考えるか」&lt;/em&gt;ということだと思います。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;そのひとつが「機械に使われない」ことなのですが、もうひとつは「情報に振り回されない」ということではないでしょうか？&lt;/P&gt;&lt;p&gt;新聞記事をどう読むか、テレビニュースをどう見るかという教育はとても重要になりつつあります。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;昭和初期にもそうでしたが、マスコミというものは簡単に大衆を扇動する凶器になりえます。つい昨日も、「イラク兵を虐待する英兵」という写真を報道した英紙が捏造写真だったことを認め、編集長を解任しましたね。これなど最初の報道はセンセーショナルなだけに目立ちましたが、解任の方の報道は危うく見落とすところでした。訂正記事の方がいつでもどこでも扱いは小さいものです。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;具体的には、「こう読め」という教え方ではなく、「鵜呑みにするな」「根拠を確かめろ」「推測か事実かを判断しろ」というようなことだと思うのですが。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;「情報教育」というお題目でやるならば、ここを抜かしては成り立たないのではないかと思います。&lt;/P&gt;

&lt;h3&gt;2&lt;/h3&gt;

&lt;p&gt;100年ほど前のサモアの酋長がヨーロッパを旅行して帰ったあと、自分の国の人たちに向けて書いた手記をまとめた『パパラギ―はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』（立風書房、1981年）という本があります。&lt;/P&gt;

&lt;blockquote&gt;&lt;table  border="0" cellpadding="5"&gt;&lt;tr&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%83%91%E3%83%91%E3%83%A9%E3%82%AE%E2%80%95%E3%81%AF%E3%81%98%E3%82%81%E3%81%A6%E6%96%87%E6%98%8E%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%81%9F%E5%8D%97%E6%B5%B7%E3%81%AE%E9%85%8B%E9%95%B7%E3%83%84%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%93%E3%81%AE%E6%BC%94%E8%AA%AC%E9%9B%86-%E5%B2%A1%E5%B4%8E-%E7%85%A7%E7%94%B7/dp/4651930077%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4651930077" target="_blank"&gt;&lt;img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51CMYZQRB7L._SL160_.jpg" border="0" alt="パパラギ―はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;/td&gt;&lt;td valign="top"&gt;&lt;font size="-1"&gt;&lt;a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%83%91%E3%83%91%E3%83%A9%E3%82%AE%E2%80%95%E3%81%AF%E3%81%98%E3%82%81%E3%81%A6%E6%96%87%E6%98%8E%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%81%9F%E5%8D%97%E6%B5%B7%E3%81%AE%E9%85%8B%E9%95%B7%E3%83%84%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%93%E3%81%AE%E6%BC%94%E8%AA%AC%E9%9B%86-%E5%B2%A1%E5%B4%8E-%E7%85%A7%E7%94%B7/dp/4651930077%3FSubscriptionId%3D15SMZCTB9V8NGR2TW082%26tag%3Dcommex-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4651930077" target="_blank"&gt;パパラギ―はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集&lt;/a&gt;&lt;img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=commex-22&amp;l=ur2&amp;o=9" width="1" height="1" style="border: none;" alt="" /&gt;&lt;br /&gt;
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&lt;/table&gt;&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;長くなりますがその中から抜粋を。新聞についてのくだりです。（ちなみに「パパラギ」とは白人のことだそうです）&lt;/P&gt;

&lt;blockquote title="『パパラギ』"&gt;
&lt;p&gt;...この紙の中に、パパラギの大きな知恵が置かれている。毎朝毎晩、パパラギは、この紙のあいだに頭をつっこみ、頭が新しいものでいっぱいになるように、腹いっぱいに食べさせる。&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;

&lt;blockquote title="『パパラギ』"&gt;
&lt;p&gt;...パパラギは何でも、貪欲に取り込む。たとえどんなに悲しいことでも、健康な人間の理性ならすぐに忘れてしまいたいことでも。そう、まさによくないこと、人を悲しませるようなことが、どんないいことよりもずっとくわしく伝えられる。そう、よいことを伝えるより、悪いことを伝えるほうがずっと大切で、うれしいことででもあるかのように、こと細かに。&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;

&lt;blockquote title="『パパラギ』"&gt;
&lt;p&gt;...おまえが兄弟に会ったとき、だれもがもう束になった紙の中へ頭をつっこんでいたら、もう何も新しいこと、特別なことを話そうにも話すことがない。そこでおまえたちはみんな黙ってしまうか、せいぜい紙がしゃべったことをもう一度くり返すだけだ。祭り、あるいは悲しみは、ともに祝い、ともに悲しむべきものであり、自分の目で見ず、他人の口から聞いただけでは、心を動かされることは少ない。&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;

&lt;blockquote title="『パパラギ』"&gt;
&lt;p&gt;...新聞は、すべての人の頭をひとつにしたがっている。私の頭、私の考えを征服しようとしている。どの人にも新聞の頭、新聞の考えを押しつけようとしている。&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;

&lt;blockquote title="『パパラギ』"&gt;
&lt;p&gt;...新聞もまた一種の機械である。毎日たくさんの考えを作り出す。ひとつひとつの頭が考え出すより、はるかにたくさんの考えを。しかし、たいていの考えは誇りも力もなく、弱い。おそらく私たちの頭は、栄養でいっぱいになるだろう。しかし、強くなりはしない。&lt;/p&gt;
&lt;/blockquote&gt;

&lt;p&gt;この本を読んだ人の感想の両極端は、&lt;/p&gt;

&lt;blockquote&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;この本の示すとおり、文明を捨て自然に帰ろう&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;しょせん文明を知らない未開人のたわごとだ&lt;/li&gt;
&lt;/ol&gt;
&lt;/blockquote&gt;

というものでしょうか。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;私たちはそのどちらでもない道をゆくべきなのだろうと思います。この酋長の言葉と同じくらい、私が共感したのは、原書版に挿絵を寄せた画家の次のことばでした。&lt;/P&gt;&lt;blockquote title="『パパラギ』あとがき"&gt;...小冊子「パパラギ」が私にとって愛すべきものとなったのは、「帰れる」という夢でした。実現不可能な夢。なぜなら、現在の技術と生活水準のことを考えると私たちはもう、自分では止めることのできない手順を始動させてしまった、例の「魔法使いの弟子」のようなものですから。そして魔法使いの弟子が溺れかけているように、私たちも成長信仰の中で溺れかけています。私たちはこのスープを、たとえそれには毒がはいっていても、飲みほすに違いないと思います。だから私はこの本を読みながら、たびたび胸に湧く滑稽なイメージのために、何度も大笑いさせられながら、この本をひとりの使者として真剣に受けとめずにはいられませんでした。...&lt;/blockquote&gt;&lt;br /&gt;
&lt;p&gt;私たちは否応なしにこの文明社会を生きていかなければならない。それが決してユートピアにつながる道ではないと知りながら。その中で、「情報」と上手につきあっていかなければならないのだと思います。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;少なくとも、情報は、私たちの目を開かせてくれることがあるのと同じくらいに、私たちの目を曇らせてしまうことがある、という理解が必要だろうと思います。また、情報は、必ず送り手の主観によって編集されていることを知っておかなければならないと思います。&lt;/P&gt;&lt;p&gt;&lt;em&gt;「事実」&lt;/em&gt;などないのだということを。&lt;/P&gt;</content><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/7840810121717821183" rel="edit" type="application/atom+xml"/><link href="http://www.blogger.com/feeds/8886309710332504172/posts/default/7840810121717821183" rel="self" type="application/atom+xml"/><link href="http://education.nakagawa.click/2004/06/blog-post_06.html" rel="alternate" title="情報教育について" type="text/html"/><author><name>RYO NAKAGAWA</name><uri>http://www.blogger.com/profile/05887463633322366088</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image height="32" rel="http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail" src="//blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBE5WgY8jVN27SSDUtquMk_uwVumdhssO2N6fRc6AHH7u3RhQzYCXFMBRUaWi489oEKlembA-S0-7Wwgn3gzQOqHoSQ2hsk4rKRM_folEXPjWi1TIdUT2q84Q4d-QpcA/s113/italy.jpg" width="32"/></author></entry></feed>